第95話 俺の仮の婚約者がモテ過ぎて困る件
ダンスパーティ前日のルミエールアカデミーは、朝から妙に華やいでいた。
いつもなら実習と講義の話題しか飛び交わない中庭に、今日は笑い声が多い。石畳の上には淡い金色の装飾が施され、学生会が用意したらしいリボンが風に揺れている。花壇には見慣れない品種の花が植え替えられ、甘い香りが空気に混じっていた。
通り過ぎる生徒たちの足取りも軽い。
「今年のダンスパーティ、医療棟のホールも使うらしいよ」
「大学部の正装、気合入りすぎじゃない?」
「中等部も参加できるの、今回だけだって!」
制服のままでも分かる浮き足立ちように、俺は少しだけ距離を感じた。
医療者の卵として、日々の実習に追われる生活を送っていると、こういう非日常はどこか別世界の出来事に見える。
病院棟へ向かう廊下に入っても、その空気は続いていた。
ナースステーションの掲示板には、いつの間にかダンスパーティの案内が貼られ、淡い装飾まで添えられている。白衣姿の医師や看護師たちも、「明日は賑やかになりそうね」と、どこか柔らかな表情で話していた。
だが――俺の背中に突き刺さる視線の数は、明らかに多すぎた。
ひそひそとした声。
名前を呼ばれる気配。
期待と好奇心が入り混じった、落ち着かない空気。
「……なんだ?」
独り言が漏れた瞬間、後ろから勢いよく肩を叩かれた。
「ハヤト! お前、完全に時の人だぞ!」
振り返ると、テオが満面の笑みで立っていた。今日は珍しくパンをくわえていない。
「意味が分からない」
「知らないのか? いやあ、さすが学年首席だな」
嫌な予感がした。
医療現場で培った勘は、こういう時に外れない。
「要点だけ言え」
「新聞部が号外出した。『大学部首席ハヤト・キサラギ、中等部生と婚約』だってさ」
一瞬、頭の中が真っ白になる。
「……誰が、何と?」
「盛りに盛ってる。ダンスパーティで正式発表とか書いてあったぞ」
俺は額を押さえた。
心当たりが、はっきりしすぎている。
病院棟の病室の前で、一度深呼吸してからノックする。
「はーい! ハヤトにぃに!」
弾む声に、ため息が出そうになるのをこらえた。
ベッドに腰掛けたエレナは、今日も元気そうだった。午前中の授業を終えたばかりで、制服姿のまま足をぶらぶらさせている。
「体調は?」
「うん! 朝の検査も問題なかったよ」
その言葉に、胸の奥が少し軽くなる。
何よりもまず、それが一番だ。
「……なあ、エレナ」
「なぁに?」
屈託のない笑顔。
俺は逃げ場を失った覚悟で聞いた。
「昨日、誰かに俺との関係を話したか」
「うん!」
即答だった。
「仮の婚約者だよーって言った!」
やはりか。
「それでね、『ダンスパーティ一緒に出るんですか?』って聞かれて」
「聞かれて?」
「『ハヤトにぃに、すごくモテるんだよ!』って教えてあげた!」
悪意は、微塵もない。
それが、余計に責められない。
「エレナ、仮って意味は分かってるな」
「もちろん! 本当のじゃないやつでしょ?」
分かっていて、こうなる。
それがエレナだ。
「でもね」
エレナは少しだけ表情を曇らせた。
「にぃにが困ること、したくなかった。ごめんね」
その一言で、俺の中の苛立ちは完全に消えた。
「謝る必要はない。俺が、ちゃんと対処する」
それは婚約者としてじゃない。
医療者として、そしてこの子を守る立場としての責任だ。
病室を出た瞬間、廊下に人だかりができていた。
「ハヤト先輩!」
「本当なんですか!?」
「ダンスパーティ、誰と出るんですか!?」
質問が矢継ぎ早に飛んでくる。
だが、俺は足を止めなかった。
一歩前に出て、視線を正面に向ける。
「事実だけ言う」
自然と、医療現場で患者に説明する時と同じ声になった。
「エレナは大切な患者で、家族同然の存在だ。憶測や噂で振り回すな」
静まり返る廊下。
誰かが小さく息を呑む音が聞こえた。
逃げない。
誤魔化さない。
それが、俺のやり方だ。
夕方、中庭はさらに華やかさを増していた。
装飾の灯りが入り、夕暮れの空に柔らかな光が滲む。
「相変わらず目立つわね」
隣に立ったエマが、腕を組んで言った。
「騒がせてるつもりはない」
「分かってる。でも、逃げなかった。それでいい」
エマは視線を中庭に向けた。
「ダンスパーティ、どうするの?」
「患者優先だ」
迷いはなかった。
「……それがハヤトよね」
夜風が頬を撫でる。
華やかな光の向こうで、病院棟の灯りは静かに揺れていた。
明日も、命の時間は続く。
噂よりも、パーティよりも、守るものは決まっている。
たとえ仮でも。
俺は倒れない。
誰も倒れさせないために。




