第92話 噛んでも伝えたい夜がある
ルミエールアカデミー全体が、いつもより少しだけ浮き足立っていた。
朝の回診を終え、白衣のまま廊下を歩いているだけで、その理由は嫌でも伝わってくる。
「今年のダンスパーティ、病院棟のホールなんだって」
「照明が増えるらしいよ」
「中等部も参加できるって聞いたけど、本当かな」
あちこちからそんな声が聞こえてくる。
普段なら疾患名や検査数値、薬剤の話ばかりが飛び交う場所だ。今日は明らかに違う。
命を扱う学び舎でも、人はちゃんと日常を生きている。
その空気を、俺は嫌いじゃなかった。
白衣のポケットに入っている一枚の紙に、無意識に指が触れる。
ダンスパーティの招待状だ。
渡したい相手は、一人だけ。
病院棟に入院しながら、午前中だけ学校に通っている――エレナ・インゼル。
病院棟へ続く回廊の窓際で足を止め、俺は中庭を見下ろした。
エレナが授業を終えて戻ってくる時間は、もう何度も確認している。
……落ち着け。
手術前説明のときだって、俺はもっと冷静だった。
「ハヤト」
背後から声をかけられ、肩がわずかに跳ねた。
振り向くと、規律に厳しい教授が立っている。
「ここで何をしている」
「次の実習の準備を」
「準備にしては、同じ場所を何度も往復しているようだが」
完全に見抜かれていた。
俺は姿勢を正す。
「学内では常に模範であれ」
「……はい」
教授はそれだけ言い残し、足早に去っていった。
背中を見送りながら、俺は胸の奥を軽く押さえる。
強くなったつもりでいた。
実習でも現場でも、判断を誤らず、感情に流されない。
それなのに、エレナを誘うだけで心拍が乱れる。
気持ちを切り替えるため、俺は訓練室へ向かった。
扉を開けた瞬間、騒がしい声が飛び込んでくる。
「だから、その位置だと俺の足踏むって言ってるだろ!」
「踏まれるところにいるのが悪いのよ!」
テオ・アルトとエマ・リンデンだった。
二人は向かい合い、ぎこちないダンスの姿勢を取っている。
「……何してるんだ?」
「見て分かんないのか、練習だよ!」
「あなたが余計な動きをするからでしょ!」
声を揃えて言われ、俺は思わず苦笑した。
「医療現場より緊張感あるな」
「ハヤト、こいつが――」
「ハヤト、こいつが――」
また同時だ。
周囲で見ていた学生たちが小さく笑う。
「喧嘩してるのに息合ってるよね」
「逆にすごい」
「もう組む相手としては正解じゃない?」
「正解じゃない!」
「誰がよ!」
否定の声もきれいに重なった。
二人は一瞬だけ視線を合わせ、気まずそうに逸らす。
……不器用なのは、俺だけじゃない。
「まあ、組むことになったんだろ」
「余りもの同士なだけだ」
「余りものって言うな!」
エマが睨み、テオが頭を掻く。
険悪さの奥に、わずかな信頼が滲んでいた。
医療の現場でも同じだ。
意見が衝突しても、最後に見るのは同じ命。
だから歩調は揃う。
午後。
病院棟の廊下は、午前よりも静かだった。
「エレナさん、今日は調子いいって」
「リハビリも予定より早く終わったらしい」
「ハヤト先輩が診てるから安心だよね」
そんな声が背後から聞こえ、俺は足を止めた。
渡り廊下の先。
ベンチに腰かけ、ノートを開いている小さな背中が見える。
「エレナ」
「あ、ハヤトにぃに!」
その笑顔を見るだけで、胸の奥が温かくなる。
俺は一歩近づき、招待状を握りしめた。
「えっと……その……」
言葉を選んだ、その瞬間。
「お、俺とダンパーティ、いない?」
……噛んだ。
一瞬、頭が真っ白になる。
逃げるな。
俺はここで倒れない。
「……ダンスパーティ、かな?」
エレナがくすっと笑った。
「うん。俺と一緒に行ってほしい」
今度は、ちゃんと言えた。
エレナは少し考え、胸の前で手を握る。
「行く。ハヤトにぃにとなら、行きたい」
その言葉が、まっすぐ胸に届いた。
「ありがとう。無理はさせない。体調のことは俺が一番分かってる」
「うん。だから安心なんだよ」
信頼されている。
それが、俺を支える。
遠くで騒がしい声が聞こえた。
「なぜ俺が余りものなんだ」
「規則です」
マルクス・ヴェルナーと、蛇寮の女寮監。
周囲の学生がひそひそと囁く。
立場がどうであれ、組まされるときは組まされる。
医療も、人間関係も同じだ。
俺はエレナに向き直る。
「パーティまで、体調管理は万全にしよう」
「うん。倒れないよ」
「その言葉、俺が言う側なんだけどな」
二人で小さく笑った。
噛んでも、緊張しても、俺は前に進む。
守るべき人がいる限り、立ち続けられる。
――頼むから誰も倒れないでくれ。
その願いを胸に、俺は来たる夜へ向かって歩き出した。




