第91話 胸の奥で解ける緊張
避難所となった体育館は、夜明け前の薄い青さに包まれていた。
静かだが、その静けさは心が落ちつくようなものではなく、
張りつめていた糸が切れた直後の、現実と夢のあいだに浮かぶような空虚さだった。
人々は毛布にくるまり、一部はまだ震えが残っているのか、薄い灯りの中でぼんやり天井を見つめていた。
誰もが疲れ果てていた。
当然だ。あの地震の揺れと余震の連続、避難…そして非日常の中での不安。
その中で医療対応を続けていた俺の身体もまた、芯まで疲れていた。
歩こうとした足が、突然ふっと力を失った。
崩れ落ちるというほどではないが、膝が勝手に曲がって床に触れた。
体育館の固い床が、じわりと膝を通して伝わり、かえって現実感を与えてくる。
「は……ぁ」
呼吸が浅い。
喉の奥が焼けるように乾いている。
頭もぼんやりして、目の奥がズキズキする。
――こんなところで座り込んでいる場合じゃない。
そう思うのに、身体が動かない。
自分でも驚くほど、疲れが全身を支配していた。
腕を少し動かしただけで、筋肉が悲鳴をあげた。
その瞬間、胸に小さな不安が湧く。
(……まずいな。俺、本当にギリギリだったんだな)
地震発生からの十数時間。
崩れた棚に巻き込まれた男子生徒の止血。
喘息を悪化させた少女の吸入。
泣き叫ぶ子どもを抱きしめて落ち着かせ、脱水でふらついた人に飲水を促した。
心臓の負担が気になる高齢者のバイタルも確認した。
一人で。
それが当たり前のように動き続けていたけれど、
こうして膝から崩れて初めて、自分の疲労の深さを知る。
思わず口をつく。
「……エレナ……」
あの子の名前が、自然と漏れた。
無意識だったのに、声はひどくかすれていた。
そのときだ。
「ハヤトにぃに!!」
遠くの仕切り幕の向こうから、弾かれたような声が響いた。
その勢いのまま、エレナが飛び込んでくる。
息を切らし、髪を揺らし、白いパジャマの裾を握りしめて。
「やだ、やだやだ……どうして……?!」
俺の目の前に膝をつき、その小さな肩が震えていた。
さっきまで別室で休ませていたはずなのに、
よほど俺の様子がおかしく見えたんだろう。
「エレナ……落ち着いて」
「落ち着けないよ! だって、だって……ハヤトにぃに……顔色……すごく悪い……!」
震える声で、泣き出しそうな顔で俺を覗き込む。
その目は赤く、ずっと泣いた後のように腫れていた。
「もう……いやだよ……こんなの……。
みんな助けて、ずっと走って……倒れちゃうんじゃないかって……ずっと……」
エレナの手が、恐る恐る伸びてきて、俺の頬に触れた。
その手のひらは冷たいのに、触れた瞬間に胸の奥に熱が走った。
「私、見てたんだよ……。
ハヤトにぃにが……すっごく怖い地震の中でも、真っ先に動いて……
泣いてる子も、怪我してる人も……いっぱい助けてて……」
涙がポロリと落ちる。
「“私の大好きな人だ”って……胸の中で、何回も思ってたの」
その言葉に、俺は息をのんだ。
守られてばかりの子だと思っていた。
心臓を抱え、無理をさせられない少女。
だけど今、目の前にいるエレナは、それだけじゃなかった。
震えながらも、必死に俺を支えようとしている。
突然、エレナが顔を近づけてきた。
「……エレナ?」
次の瞬間、柔らかな温度が唇に触れた。
一瞬。
でも、その一瞬に込められた感情が、胸いっぱいに流れ込んでくる。
エレナは唇を離すと、今にも泣きそうな声で言った。
「守られるだけなんて……いやだよ。
私だって……ハヤトにぃにを守りたいの……。
大事な人だから……」
その言葉に、胸が強く締め付けられた。
俺は、こんなにも誰かに想われていたのか。
こんなにも必死に支えられていたのか。
言葉にできない思いが、胸の奥であふれそうになる。
◆ ◆ ◆
「お前たち。そこで何をしている」
静まり返った体育館に、突然低い声が響いた。
規律に厳しい教授が、腕を組んでこちらを見ていた。
エレナはびくっと肩を跳ねさせ、俺は反射的に背筋を伸ばす。
「こ、これは……その……!」
「言い訳はするな。
キサラギもインゼルも、在学中の過度な接触は禁止だ。
これは絶対だ」
「……はい」
俺は素直に頭を下げた。
エレナも小さく肩を落とし、しゅんとした表情を見せる。
だが教授は、その表情を見てか、少しだけ目を細めた。
「……だがな。
今日のお前たちの行動は見ていた。
お互いが支え合い、逃げず、よく耐えた」
「……教授……」
「感情が揺れるのは当然だ。
今の状況で、それを責めるつもりはない」
その言葉に、エレナが涙を滲ませたまま俺の袖をつまむ。
俺も胸の中に、張りつめていた何かがほどけていくのを感じた。
「……もし、互いの気持ちを“形”として確認したいのならば――」
教授は静かに続けた。
「仮の婚姻届を書くことだけは許可しよう」
その瞬間、エレナの目が見開かれた。
「か、仮……って……も、もしかして……!」
「正式なものではない。提出もできん。
だが、お互いの覚悟を確かめたい気持ちがあるのならば、
“誓いの紙”としてなら……認めよう」
エレナの目に溜まっていた涙が、静かにこぼれ落ちた。
「……ほんとに……いいの……?」
「ああ。ただし、節度を守れ。
互いを軽んじることは許さん」
エレナは泣きながら何度も頷いた。
俺の胸にも、静かな熱が宿る。
エレナの手が震えているのが伝わり、それを包み込むように俺は言った。
「……エレナ。
地震のとき……お前が無事だとわかった瞬間……胸が痛いくらい安心した。
その気持ちは嘘じゃない。
ずっと……お前の未来を考えていた」
「……ハヤトにぃに……」
「だから……書こう。
提出しない紙でも……お前と同じ方向を見たい」
エレナは泣きながら笑って、俺の胸に額を押し当てた。
「……うん……!
ずっと、ずっと書きたかった……!」
◆ ◆ ◆
避難所の隅に置かれた小さな卓上ランタンが、
二人の影を柔らかく照らしていた。
俺とエレナは並んで座り、白い紙を前にしてペンを握る。
体育館全体が静まり返っている。
余震の音もなく、息を潜めたような夜明け前の空気。
紙の上に、自分の名前を書く。
その文字が、今までとは違う意味を帯びて見える。
横を見ると、エレナは胸の上で手をぎゅっと握りしめていた。
「ねぇ……ハヤトにぃに。
こういうのって……変な感じだね……」
「変かもしれないけど……悪くない」
「うん。私も……すごく……あったかい」
エレナが微笑み、そのまま自分の名前を書いた。
震える文字だったが、そこに込められた気持ちは、強くてまっすぐだった。
「これで……今日から……」
エレナは涙を拭いながら言った。
「“仮の婚約者”だね」
ランタンの灯りが、重なった俺とエレナの名前を照らす。
地震で揺れた心も、疲れで沈んだ身体も、
この一枚の紙に触れた瞬間、驚くほど軽くなる。
これが“本物”になる日は、きっと来る。
俺はそう確信しながら、静かに息を吐いた。
「エレナ……これからも俺の隣にいてくれ」
エレナは目を潤ませて、強く頷く。
「もちろんだよ……ハヤトにぃに」
避難所の冷たい空気の中でも、
エレナのその声だけは、どこまでもあたたかかった。




