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倒れないでくれ! ――限界と選択を描く医療ヒューマンドラマ――  作者: 東雲 明
四年生編:倒れず走る四年生

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第90話 たった1人でも、守りたい人がいる

 地震の揺れがようやく収まった頃には、医療棟の廊下はすでに避難の人々で溢れ返っていた。

 天井の一部は落下し、設備は止まり、通信も数分おきに途切れる。外の状況もわからない。

 ——それでも、やることは山ほどある。


 俺は腕の中のエレナを抱え直しながら、急ごうとする脚を必死に落ち着かせた。


「ハヤトにぃに……まだ、揺れてるみたい……こわいよ……」


 震える声が、胸の奥に突き刺さる。

 俺は彼女の肩を包み込むように抱き寄せ、小さく囁いた。


「大丈夫。俺がいる。これだけは絶対に信じてくれ」


「……うん」


 涙で濡れた瞳が、ほんの少しだけ安心した色に変わる。

 その変化が、俺にとっては何よりの力になった。


 避難所に指定された体育館は、すでに患者と学生で混乱していた。

 泣き叫ぶ声、救護を求める声、割れたガラスの音——あらゆる音が交錯して、空気そのものが重く沈んでいる。


「キサラギ君! そっちの子は?」


 先生が、避難してきた人々の列の中から俺を呼んだ。


「エレナの心拍が不安定です。安全な場所に寝かせて、様子を——」


「任せる! こっちはこっちで手一杯だ! 他の学生たちにはぐれないようにね!」


 先生の言葉の裏に滲む焦りに、事態の深刻さが一層伝わってくる。

 つまり——今は誰も余裕がない。

 俺がやらなきゃいけない。


 エレナ用のスペースを確保し、簡易ベッドに寝かせる。

 毛布をかけ、胸元に手を当てると、その鼓動は明らかに早い。


 緊張と恐怖、そして持病。

 すべてが彼女の体を追い詰めていた。


「エレナ、ゆっくり呼吸しよう。俺が声を合わせるから」


「……うん……ハヤトにぃにの声、ちゃんと聞こえる……」


 その返事を聞いて、少しだけ安堵しながら俺は周囲を見渡した。


 避難者の中には怪我をしている人、泣き叫ぶ子ども、パニックで過呼吸を起こしている子もいる。

 テオは食料確保のために走って行ったし、エマは薬品バッグを抱えて緊急対応中。

 つまり、今この場所でまともに動ける医療学生は俺くらいだった。


「……よし、やるしかない」


 自分自身に言い聞かせるように、小さく呟いた。



 それからの数十分は、時間の感覚が曖昧になるほどの忙しさだった。


「大丈夫ですか? 足の痛みはどこから——」


「お母さん、こっち来て! この子、吐き気がするって!」


「キサラギ先輩、こっちの子どもが落ち着いてくれなくて……!」


 泣き叫ぶ声が重なり、俺の名前がいろんな方向から飛んでくる。

 ただ、混乱を収めるために、まずは声のトーンを落とした。


「大丈夫。落ち着いて。順番に見るから、安心して座ってください」


 驚くほど効果があった。

 人は、誰かの落ち着いた声を必要としている——そんな当たり前のことを、今ほど痛感したことはない。


 捻挫をした子には冷却を、パニックの子には呼吸法を、嘔気のある人には姿勢調整と水分補給。


 俺は自分でもびっくりするほど冷静だった。


 震えている膝を必死に抑えながら、それでも手は迷いなく動く。

 誰かが俺を必要としているなら、応えるしかない。


 そうすることが、俺にできる唯一のことだから。



 何人目かの対応を終えた頃、エレナのところへ戻ると、彼女が苦しそうに身を丸めていた。


「エレナ……! どうした?」


「はぁ……っ……胸が、きつくて……息が、少し……」


 胸が凍った。

 発作の兆候。

 地震の恐怖が、やっぱり負荷になってしまったのか。


「大丈夫だ。すぐ対応する」


 手を握ると、彼女の指が自分の掌に必死に絡みついてきた。


「ハヤトにぃに……い、いかないで……」


「行かない。絶対離れない」


 その言葉は、俺自身に言い聞かせるようでもあった。


 呼吸を整えさせ、背部をさすり、苦しくない姿勢を作る。

 エマからもらっていた薬を確認しながら、必要最低限の処置を施す。


 震える彼女の体温が手のひらに伝わり、胸がぎゅっと締めつけられた。

 守りたい、と心の底から思った。



「……ふぅ……ハヤトにぃにのおかげで……少し、楽になってきた……」


「よかった……」


 ほっと息をついた瞬間、どっと力が抜けた。

 その時になって初めて、自分が何時間も水を飲んでいないことに気づく。

 脚も腰も限界に近い。


 でも——横たわる彼女の指が、俺の袖をぎゅっと掴んだ。


「ハヤトにぃに……わたし……ちゃんと聞いてるよ。さっきの続き……」


「続き……?」


「言おうとしてたでしょ……大事なこと」


 その瞳は揺れていたけれど、恐怖ではなく、期待で。


 俺は一瞬だけ迷い、それから彼女の小さな手を包む。


「……エレナ。俺は、お前を守りたくて医療を選んだんじゃない。でも今は——お前が、俺を強くしてくれている」


「ハヤトにぃに……」


「地震でも、混乱でも、誰が邪魔しても。俺は——お前を守るために生きたいと思ってる」


 エレナの唇が、少しだけ震えた。


「わたし……こんな時なのに……嬉しくて……どうしよう……」


 涙が、すっとこぼれる。


 避難所のざわめきの中でも、彼女の涙の音だけが胸の一番深いところに落ちていくようだった。



 周りの人たちが少しずつ落ち着きを取り戻してきた頃、テオが食料袋を抱えて走ってきた。


「ハヤトぉぉぉ! パン! パン確保したからぁぁっ!」


「テオ、声が大きい」


 そこへ、汗だくのエマも駆けつける。


「キサラギ、今の処置……完璧だった。あなたの判断、すごくよかった」


 不思議なことに、その一言で涙が出そうになった。


 やっと……やっと、俺は仲間たちの中で「役に立てた」と思えたから。


 でも、そんな俺を見て、エレナが微笑む。


「ハヤトにぃには……ずっとかっこいいよ」


 言葉にできない何かが胸の奥で温かく灯った。



 こんな大災害の最中で、それでも人の命を繋ぎ、誰かの泣き声に応えて、そして——

 守りたい人のそばにいる。


 今日の俺は、たった一人で走り続けた。

 だけど孤独じゃなかった。


 誰かの不安を受け止め、誰かの痛みに手を伸ばし、そして——

 一番大切な少女の呼吸を支えた。


 あの日よりも。

 昨日よりも。


 俺は、確かに強くなっていた。

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