第9話 禁じられた光の囁き
ルミエール医療アカデミーの夜は、深い静寂に沈んでいた。
白い校舎が月光を受けて淡く光り、寮の窓辺からは、どこか遠い場所で虫の声が響いてくる。
俺は獅子寮の寝室で、眠れずに天井を見つめていた。
テオの豪快ないびき。エマの規則的な呼吸。
静まり返った部屋の中で、今日の出来事だけが頭の中で渦を巻く。
――エレナの蒼白な顔。
――手術室の冷たい照明。
――心電図の無音の線。
――そして、俺が取り乱した瞬間、彼女がかすかに反応を見せたあの場面。
あれは本当に偶然だったのか。
俺の叫びに反応したようにしか、思えなかった。
だが、そんな馬鹿げた話を医学部の誰が信じる。
まして俺は、特別な力なんか持っちゃいない。ただの医学生だ。
病弱な体で、孤児院で育って、ひたすら努力だけでここまで来た人間だ。
――エレナを救うために。
その一点だけで、このアカデミーに進学した。
なのに、昨日の手術で露わになったのは、俺の無力さだった。
あの細い指の冷たさ。抱きしめた時のかすかな震え。
祈ることしかできなかった自分が、今でも許せない。
時計を見ると、針は深夜を指している。
そろそろ、誰も起きていない時間だ。
俺はそっとベッドを抜け出し、足音を殺して寮を出た。
廊下の絨毯が柔らかく沈み、壁のランプが橙色の光を落とす。
どの部屋も真っ暗で、皆、深く眠っている。
昨夜、テオに言われた言葉を思い出す。
「お前、今や超有名人だぞ。『心停止した少女に奇跡の反応』だとさ」
冗談めかして笑っていたけど、俺には笑えない。
あれは奇跡なんかじゃなく、俺の必死の取り乱しにすぎない。
ただの錯覚だ。
……そう思おうとしても、胸に残ったざわつきだけが邪魔をする。
エレナのために、答えが必要だ。
彼女の病気は、表面的なカルテだけでは説明がつかない。
階段を降り、校舎の地下へ続く廊下へと足を踏み入れる。
本来、学生が立ち入り禁止の研究データ保管庫。
普段はオートロックで厳重に管理され、許可証がなければ開かないはずだ。
しかし――
入学直後のオリエンテーションで、エマが笑いながら言った。
「夜中のシステム更新時だけ、数秒だけセキュリティが切り替わるのよ。まあ、誰も使わないけどね」
医療アカデミーにそんな欠陥を残すなよ、とツッコミたいが、今は利用するしかない。
俺は壁の端末にそっと触れ、セキュリティ表示が切り替わった一瞬を逃さず、扉を開いた。
地下通路は、冷たく湿った空気に満ちていた。
コンクリートの壁に貼られた標識は色褪せ、流れ出した配管の跡が黒ずんで残っている。
ランプの少ない通路を、手持ちのライトで照らしながら進む。
靴底が薄く濡れ、金属臭とカビの匂いが鼻を刺す。
――ここに、彼女の病に関する何かがある。
そう感じたのは、単なる勘ではない。
エレナの診断データには、不自然な空白がいくつもあった。
本来残るはずの前医のカルテがごっそり抜けている。
治療歴も、途中で途切れている。
まるで誰かが、意図的に消したように。
通路を抜けた先に、巨大な扉が現れた。
「医療特別資料保管室」。
重厚な金属の扉には、管理番号と警告文が刻まれている。
セキュリティが切り替わる瞬間、俺は息を潜めてカード端末に触れた。
――カチリ。
小さな音とともに、ロックが外れた。
すぐに入室し、扉を閉める。
もう戻れない。
見つかったら退学どころか、処分ものだ。
だが、エレナを救える可能性があるなら、構わない。
◆
資料保管室は、思ったよりも広かった。
コンクリート打ちっぱなしの壁に、ひたすら金属棚が並んでいる。
棚には、分厚いファイルや古いハードディスク、劣化した紙書類が無数に積まれている。
ライトで照らすと、埃が金色に舞い、静寂が耳に痛い。
棚の奥に「特別管理:要申請」と赤字で書かれた区画があった。
俺の胸が強く打つ。
――ここだ。
震える手で、一番古びたファイルを引き抜く。
表紙には、擦れて読みにくい文字。
『臨床実験記録:N-41症候群(通称:闇の病)』
喉が焼けるように痛む。
闇の病……。
そんな名前の病気、教科書には存在しない。
完全に廃棄されたか、秘匿されたか。
ページを開くと、古いインクの匂いが立ち上る。
そこには、信じがたい記述が並んでいた。
――この病気は、精神ストレスと遺伝的要因が複合的に絡みあう「心因性崩壊症候群」。
――幼少期の強いトラウマを引き金に、身体機能が連鎖的に停止していく。
――特定の家系にわずかに見られる。
――治療法は確立していない。
――過去の治療例のほとんどが、患者の死亡で終わっている。
ページが震えるほど、手が汗ばんだ。
エレナ……。
お前、こんな病気を抱えていたのか……?
ページの端に、担当医の手書きのメモがあった。
『唯一、患者の生命反応を回復させた例がある。
条件不明。強烈な情動刺激が関与している可能性。
詳細は後続資料に移管(機密扱い)』
情動刺激。
俺が、手術室で彼女を抱きしめた瞬間……反応があった。
偶然じゃ……ない?
胸が締め付けられ、呼吸が浅くなる。
ページをめくるたび、心臓が軋むように痛い。
資料の最終ページには、ある患者の記録が残されていた。
――幼少期、家族を喪失。
――保護施設での数年間、特定の人物に強く依存。
――後に引き離され、症状が再発。
――その人物の声にのみ反応が確認された。
――担当医の所見:
「情緒的な結びつきが、生命維持の引き金となっている可能性」
俺の視界が揺れた。
まるで、エレナのことを書いているようじゃないか。
膝に力が入らず、ファイルを抱えたままその場に座り込む。
――エレナは俺に依存していた。
――なのに俺は、何も気づかなかった。
胸の奥が、黒い泥のように重く沈む。
愛している。
兄として?
違う。
もっと深く、どうしようもなく、彼女を求めている。
でも――
歳の差。
兄妹として育った関係。
里親にもらわれていった時、俺は何もできなかった。
守りたいのに、近づくのが怖かった。
嫌われるのが怖かった。
「兄でいること」を盾にして、逃げていた。
その結果がこれだ。
エレナの命を脅かす病気に、俺は何一つ気づけなかった。
喉の奥が熱くなり、涙がファイルに落ちた。
――守るって約束したのに。
震える手でページを閉じ、胸に抱きしめる。
エレナを救うには、俺自身の心に向き合わなければいけない。
医療では説明できない「情動の結び付き」が、彼女の生命に関わっている。
なら、逃げ続けるわけにはいかない。
遠くで、寮の朝のチャイムが鳴った。
夜明けだ。
「……エレナ、待ってろ」
俺はファイルを抱え、重い足取りで保管室を後にした。
階段を上るにつれ、冷たい空気が薄れ、地上の暖かさが戻ってくる。
テオやエマの存在が、かすかに胸を支える。
でも、この重い真実は、まだ俺だけのものだ。
エレナの病室へ向かう廊下が、夜明けの光で淡く染まる。
――次こそ、守る。
どんな過去も、恐れも、もう言い訳にはしない。
俺は、彼女の光になる。




