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倒れないでくれ! ――限界と選択を描く医療ヒューマンドラマ――  作者: 東雲 明
一年生編:慌ただしい日々

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第9話 禁じられた光の囁き

 ルミエール医療アカデミーの夜は、底知れぬ静寂に沈み込んでいた。


 白い校舎の壁が月光を浴びて幽かに輝き、遠くの林から届く虫の声さえ、どこか儚く響く。 


 獅子寮の寝室は、いつものように穏やかな寝息に満ちていた。


 テオの豪快で規則正しいいびきが低く響き、エマの静かな呼吸がそれに寄り添うように続いている。窓から差し込む月光が、ベッドの端を淡く照らし、部屋全体を青白い影で包んでいた。


俺はベッドに横たわり、目を閉じても眠れなかった。天井の暗い模様をじっと見つめながら、胸の奥で渦巻く感情が、波のように次々と押し寄せてくる。


 エレナの顔が、瞼の裏に焼き付いて離れない。手術室の冷たい蛍光灯の下で、彼女の肌はまるで雪のように白く、唇は血の気を失っていた。


 あの瞬間、心電図が発する無情な平坦な線が、俺の心を切り裂いた。ピッ、ピッという音が止まり、ただの直線が画面を横切る。俺は我を忘れて彼女に駆け寄り、取り乱して叫んだ。名前を呼び、肩を揺さぶり、抱きしめた。すると、彼女の指先が、ほんの一瞬だけ、かすかに震えたように感じた。


 あれは、ただの偶然だったのか。それとも、俺の叫びに、彼女の心が応えたのか。


 胸の奥底で、信じたいという切ない願いが疼く。だが、そんな非科学的な考えを、誰が信じるというのだ。


 俺は特別な力など持っていない。ただの医学生だ。幼い頃から病弱で、孤児院の冷たいベッドで咳き込みながら、必死に本を読み、努力だけを支えにここまで辿り着いただけの、平凡な人間だ。奇跡など、起こせるはずがない。それなのに、心のどこかで、あの反応が本物だったと信じたくてたまらない。信じなければ、俺は立ち直れない気がする。


 エレナを救うためだけに、この道を選んだ。彼女の笑顔を守るためだけに、医者になることを誓った。


 あの細い体を抱きしめた時の、冷たくて儚い感触が、今でも肌に残っている。


 手術室で、ただ祈ることしかできなかった自分が、許せない。無力で、ただ立ち尽くし、涙を堪えるしかなかった自分が、胸をえぐられるように痛い。自分を責める気持ちが、黒い波となって心を飲み込み、息をするのも苦しい。俺は、彼女を守れなかった。守ると約束したのに。


 時計の針が、深夜二時を回っていた。寮の皆が深い眠りに落ちている時間。俺はそっとベッドから起き上がり、足音を殺して部屋を出た。


 絨毯の廊下が柔らかく足を吸い込み、壁のランプが橙色の光を優しく落とす。どの部屋も暗く、静寂が重くのしかかる。誰も起きていない。この時間なら、誰にも気づかれずに動ける。心臓が早鐘のように鳴り、罪悪感と決意が交錯する。こんなことをしている自分が、嫌になる。でも、エレナのためなら、構わない。


 テオの昨夜の言葉が、耳の奥で繰り返される。


「お前、今や超有名人だぞ。『心停止した少女に奇跡の反応』だってよ」


 彼は笑っていたが、俺には笑えなかった。あれは奇跡ではない。ただの錯覚。俺の必死の取り乱しにすぎない。


 そう言い聞かせても、胸のざわつきが消えない。あの瞬間、彼女の指が動いた感触が、鮮明に蘇る。温かかった。ほんの一瞬だけ、彼女が戻ってきたような気がした。あの感覚を、錯覚だと片付けることが、怖い。認めたくない。認めてしまったら、俺の無力さがさらに深く突き刺さる。


 エレナのために、答えが必要だ。彼女の病気は、カルテの表面だけでは説明できない何かがある。不自然な空白、欠落した記録。すべてが、誰かの意図を感じさせる。俺は階段を降り、地下へと続く廊下に足を踏み入れた。立ち入り禁止の領域。心臓が喉元までせり上がるような緊張が、体を震わせる。


 エマの言葉を思い出す。


「夜中のシステム更新時だけ、数秒だけセキュリティが切り替わるのよ」


彼女は軽く笑っただけだったが、今はそれが唯一の頼りだ。端末に触れ、表示が切り替わる一瞬を待つ。指先が震え、冷や汗が背中を伝う。扉が開いた瞬間、安堵と罪悪感が同時に胸を締め付けた。


 地下通路は、冷たく湿った空気に満ち、息をするたび肺が凍りつくようだった。コンクリートの壁は剥き出しで、配管の跡が黒く染み、金属とカビの匂いが鼻を刺す。


 ライトの光が揺れ、影が不気味に踊る。ここは、地上の清潔な世界とは別次元だ。忘れられた、暗い場所。足音が反響し、自分の心臓の音だけが耳に響く。怖い。見つかったらすべてが終わる。それでも、進む。エレナの顔が浮かぶたび、恐怖が決意に変わる。


 通路の突き当たり、巨大な金属の扉。「医療特別資料保管室」。ロックを外す瞬間、息を止めた。小さな音が響き、扉が開く。すぐに中に入り、閉める。後戻りはできない。罪の意識が重くのしかかるが、エレナの蒼白な顔を思い浮かべると、それが吹き飛ぶ。彼女を救えるなら、どんな代償も払う。


 部屋は広大で、埃っぽい空気が肺に染み込む。金属の棚に、古いファイルが無数に並ぶ。


 ライトを当てると、埃が舞い、静寂が耳を圧迫する。心臓が激しく打ち、期待と不安が交錯する。棚の奥、「特別管理:要申請」の区画。そこだ。震える手で古びたファイルを引き抜く。


『臨床実験記録:N-41症候群(通称:闇の病)』


 喉が焼けるように熱い。闇の病。そんな病名は、知らない。隠された病。ページを開くと、古いインクの匂いが立ち上り、記述が目に入る。心因性崩壊症候群。幼少期のトラウマが引き金となり、身体機能が停止していく。治療法なし。死亡例多数。


 手が汗ばみ、ページが震える。エレナ……お前、そんな病を抱えていたのか。胸が張り裂けそうな痛み。彼女の苦しみを、俺は知らなかった。気づかなかった。いや、気づかないふりをしていたのかもしれない。


担当医のメモ。『強烈な情動刺激が関与している可能性』


 手術室でのあの瞬間。俺の抱擁、叫び。それが、彼女を一瞬だけ引き戻した。偶然じゃない。胸が熱くなり、涙が滲む。希望と絶望が、同時に心を満たす。


 最終ページの患者記録。幼少期の喪失、依存した人物、引き離し、再発。その人物の声にのみ反応。


 視界が揺れる。これは、エレナだ。俺と彼女の過去そのもの。孤児院の日々。彼女が俺にすがるような目。里親にもらわれていく時、俺は何もできなかった。守れなかった。


 膝が崩れ、床に座り込む。ファイルを抱きしめ、嗚咽が漏れる。エレナは、俺を必要としていた。俺の存在が、彼女の命の糸だったのに。俺は、歳の差を言い訳に、兄として距離を置いた。本当の気持ちを恐れた。愛している。兄としてじゃない。もっと深く、禁じられた想いとして、彼女を求めていた。認めるのが怖かった。失うのが怖かった。


 その逃げが、彼女をここまで追い詰めた。守ると誓ったのに。約束を破った自分が、憎い。涙が止まらず、ファイルに落ちる。胸の奥が、引き裂かれるように痛い。後悔が、黒い渦となって心を飲み込む。愛しているのに、近づけなかった。彼女の光になりたかったのに、闇に置き去りにした。


でも、もう逃げない。彼女を救うには、この想いを認めなければならない。情動の結びつきが、彼女の命を繋ぐなら、俺はすべてを捧げる。


朝のチャイムが遠くで鳴る。夜明けだ。


「……エレナ、待っててくれ」


 ファイルを抱え、立ち上がる。足取りは重いが、心は決まっていた。階段を上るにつれ、冷たい空気が薄れ、朝の光が体を包む。


 エレナの病室へと続く廊下が、淡い朝陽に染まる。俺は、彼女のもとへ急ぐ。


次こそ、守る。過去の恐れも、禁じられた想いも、すべて受け止めて。俺は、彼女の光になる。彼女が二度と闇に落ちないよう、命をかけて。


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