第88話 揺れる世界で、君だけをさがして
今日こそ——そう胸に決めて、俺は医療棟の廊下を駆けていた。
エレナに、きちんと気持ちを伝えるために。あの日からずっと飲み込んできた想いを、ようやく言葉にして届けるために。
ところが、だ。
よりによって、マルクスが廊下の角で腕を組んで待ち構えていた。
「おや、キサラギくん。こんな時間にどちらへ?」
嫌味なほど落ち着いた声。あいつのこういうところが昔から引っかかる。
「用があるだけだ。どいてくれ」
「インゼル嬢の病室、ですね? ……残念ですが、通行は認められません。午前の診察時間はとっくに終わっていますので」
わざとらしく白衣の袖を直しながら言う。
先生じゃないくせに、まるで権限を持っているかのように振る舞うところが腹立つ。
「関係ない。俺は、彼女に——」
言いかけた瞬間、後ろから規律担当の先生の声が飛んだ。
「キサラギ君、廊下を走らない! それと、勝手な面会は禁止していると言ったはずだよね?」
……よりによって、このタイミングか。
「……すみません。でも、どうしても、今だけは……!」
俺が言葉を探していると、マルクスが横から滑り込んでくる。
「先生、彼は私情で規律を乱しています。ここはきちんと指導を——」
その時だった。
――――ブッ、ブッ、ブッ!
俺たち全員のポケットで、一斉にスマホが震えた。
けたたましい緊急地震速報の音が、静まり返った廊下に重く響き渡る。
『緊急地震速報。強い揺れに警戒してください——』
その瞬間、空気が変わった。
俺は反射的に、壁に片手をつきながら叫んでいた。
「伏せろ! ここ、揺れるぞ!」
次の瞬間——。
ドォン、と巨大な何かに突き上げられたような揺れが来た。
足元が跳ね上がり、天井の照明が激しくきしむ。
「うわぁっ!? な、なにこれぇぇっ!」
「ちょ、ちょっ……立ってられない……!」
廊下にいた学生も先生も、一斉に床に崩れ込む。
俺は体勢を低くしながら、医療棟の奥を見た。
——エレナがいる病室の方向だ。
揺れはさらに強くなる。
床が左右にゆっくりと、しかし確実に振り回され、棚が倒れ、書類が舞い上がる。
壁のガラスがガタガタ鳴り、悲鳴のようなきしみを上げる。
「エレナ……っ!」
胸が冷たくなった。
嫌な予感が、脊髄を駆け抜ける。
揺れが一瞬弱まった隙をついて、俺は立ち上がり、病室の方へ走り出した。
「キサラギ君、危ないから戻りなさい!」
「戻れません!」
俺の返事は、揺れの音にかき消された。
廊下を走る俺の横で、自動販売機が倒れ、飲料パックが飛び出して散らばる。
遠くで誰かが泣き叫ぶ声がする。
階下では何かが崩れる鈍い音。
胸が締めつけられる。
心臓が熱く脈打ち、頭の中にはひとりの少女の姿しか浮かばない。
——エレナ。
病室のドアを乱暴に開けると、ベッドの上で彼女が胸を押さえ、肩を震わせていた。
「ハヤトにぃに……っ、こわ、こわいよ……!」
涙で濡れた瞳が俺を見つけた瞬間、必死に手を伸ばす。
俺は一歩で距離を詰め、彼女の身体をしっかり抱き寄せた。
「大丈夫。俺がいる。絶対に離れない」
彼女の心臓の鼓動が、俺の胸に直接伝わってくる。
震えも、呼吸の乱れも、全部。
「息をゆっくり。吸って……そう。吐いて……俺の声を聞け」
「う、うん……っ」
彼女は必死に俺の胸を掴み、揺れをやり過ごそうとしていた。
その一瞬一瞬が、俺の胸を切り裂きそうになるほど痛かった。
落ち着かせるために背中をさすりながら、俺は気づいた。
ベッド横のモニターの心拍が、危険なほど乱れている。
「エレナ、無理するな。すぐに医師を呼ぶ」
「い、いや……行かないで……! ハヤトにぃに、ここにいて……!」
その声があまりに必死で、胸が揺れた。
揺れているのは地面だけじゃなかった。
「離れないよ。誰が何を言おうと、お前のそばにいる」
でも、やるべきことは明確だ。
俺は片手でエレナを抱きながら、反対の手でナースコールを押した。
しかし、通信はエラーを示して赤く点滅するだけだった。
「……停電か、通信障害か……くそっ」
揺れはようやく弱まりつつあったが、建物の軋みはまだ収まらない。
廊下からは、学生たちの動揺した声が次々と聞こえてくる。
外の状況もわからない。
先生たちも対応に追われているかもしれない。
——この状況で、俺がエレナを守らなければ誰が守る。
「エレナ、すぐ連れて出る。ここは危険だ」
「……ハヤトにぃにが連れてってくれるなら、どこでも……」
言葉の途中で、エレナは胸を押さえて苦しそうに息を吸った。
心不全の子に、こんな恐怖を味わわせている。
俺の腕の中で、こんなに怯えさせている。
そして——俺は思わず、彼女の耳元で囁いていた。
「エレナ。俺は……本当は今日、お前に大事な話をするつもりだった。どんな状況でも、言うと決めてた」
「え……?」
一瞬、彼女の瞳が揺れた。
でも、言葉を続けようとしたその時。
――――ブワァァァァン!
第二波の大きな揺れが襲い、病室全体が横に傾いた。
本棚が倒れ、点滴スタンドが転がる。
天井からほこりが舞う。
エレナが悲鳴を上げ、俺の胸に顔を埋めた。
「ハヤトにぃにっ……!」
「大丈夫だ、俺が守る!」
それだけは、絶対に揺らがない。
たとえ、この建物がどう揺れても。
世界中がひっくり返ったとしても。
俺は、彼女を離さない。
この瞬間、恋も、医療も、恐怖も、全部が交錯していた。
けれど俺は迷わなかった。
この手で必ず守る。
そして——
この揺れが収まったら、必ず続きを言う。
エレナに、ちゃんと届ける。
俺の本物の想いを。




