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倒れないでくれ! ――限界と選択を描く医療ヒューマンドラマ――  作者: 東雲 明
四年生編:倒れず走る四年生

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第88話 揺れる世界で、君だけをさがして

 今日こそ——そう胸に決めて、俺は医療棟の廊下を駆けていた。

 エレナに、きちんと気持ちを伝えるために。あの日からずっと飲み込んできた想いを、ようやく言葉にして届けるために。


 ところが、だ。

 よりによって、マルクスが廊下の角で腕を組んで待ち構えていた。


「おや、キサラギくん。こんな時間にどちらへ?」

 嫌味なほど落ち着いた声。あいつのこういうところが昔から引っかかる。


「用があるだけだ。どいてくれ」

「インゼル嬢の病室、ですね? ……残念ですが、通行は認められません。午前の診察時間はとっくに終わっていますので」


 わざとらしく白衣の袖を直しながら言う。

 先生じゃないくせに、まるで権限を持っているかのように振る舞うところが腹立つ。


「関係ない。俺は、彼女に——」


 言いかけた瞬間、後ろから規律担当の先生の声が飛んだ。


「キサラギ君、廊下を走らない! それと、勝手な面会は禁止していると言ったはずだよね?」


 ……よりによって、このタイミングか。


「……すみません。でも、どうしても、今だけは……!」


 俺が言葉を探していると、マルクスが横から滑り込んでくる。


「先生、彼は私情で規律を乱しています。ここはきちんと指導を——」


 その時だった。


――――ブッ、ブッ、ブッ!

 俺たち全員のポケットで、一斉にスマホが震えた。


 けたたましい緊急地震速報の音が、静まり返った廊下に重く響き渡る。


『緊急地震速報。強い揺れに警戒してください——』


 その瞬間、空気が変わった。

 俺は反射的に、壁に片手をつきながら叫んでいた。


「伏せろ! ここ、揺れるぞ!」


 次の瞬間——。


 ドォン、と巨大な何かに突き上げられたような揺れが来た。

 足元が跳ね上がり、天井の照明が激しくきしむ。


「うわぁっ!? な、なにこれぇぇっ!」

「ちょ、ちょっ……立ってられない……!」


 廊下にいた学生も先生も、一斉に床に崩れ込む。

 俺は体勢を低くしながら、医療棟の奥を見た。

 ——エレナがいる病室の方向だ。


 揺れはさらに強くなる。


 床が左右にゆっくりと、しかし確実に振り回され、棚が倒れ、書類が舞い上がる。

 壁のガラスがガタガタ鳴り、悲鳴のようなきしみを上げる。


「エレナ……っ!」


 胸が冷たくなった。

 嫌な予感が、脊髄を駆け抜ける。


 揺れが一瞬弱まった隙をついて、俺は立ち上がり、病室の方へ走り出した。


「キサラギ君、危ないから戻りなさい!」

「戻れません!」


 俺の返事は、揺れの音にかき消された。


 廊下を走る俺の横で、自動販売機が倒れ、飲料パックが飛び出して散らばる。

 遠くで誰かが泣き叫ぶ声がする。

 階下では何かが崩れる鈍い音。

 胸が締めつけられる。


 心臓が熱く脈打ち、頭の中にはひとりの少女の姿しか浮かばない。


 ——エレナ。


 病室のドアを乱暴に開けると、ベッドの上で彼女が胸を押さえ、肩を震わせていた。


「ハヤトにぃに……っ、こわ、こわいよ……!」


 涙で濡れた瞳が俺を見つけた瞬間、必死に手を伸ばす。

 俺は一歩で距離を詰め、彼女の身体をしっかり抱き寄せた。


「大丈夫。俺がいる。絶対に離れない」


 彼女の心臓の鼓動が、俺の胸に直接伝わってくる。

 震えも、呼吸の乱れも、全部。


「息をゆっくり。吸って……そう。吐いて……俺の声を聞け」


「う、うん……っ」


 彼女は必死に俺の胸を掴み、揺れをやり過ごそうとしていた。


 その一瞬一瞬が、俺の胸を切り裂きそうになるほど痛かった。


 落ち着かせるために背中をさすりながら、俺は気づいた。

 ベッド横のモニターの心拍が、危険なほど乱れている。


「エレナ、無理するな。すぐに医師を呼ぶ」


「い、いや……行かないで……! ハヤトにぃに、ここにいて……!」


 その声があまりに必死で、胸が揺れた。

 揺れているのは地面だけじゃなかった。


「離れないよ。誰が何を言おうと、お前のそばにいる」


 でも、やるべきことは明確だ。


 俺は片手でエレナを抱きながら、反対の手でナースコールを押した。

 しかし、通信はエラーを示して赤く点滅するだけだった。


「……停電か、通信障害か……くそっ」


 揺れはようやく弱まりつつあったが、建物の軋みはまだ収まらない。

 廊下からは、学生たちの動揺した声が次々と聞こえてくる。


 外の状況もわからない。

 先生たちも対応に追われているかもしれない。


 ——この状況で、俺がエレナを守らなければ誰が守る。


「エレナ、すぐ連れて出る。ここは危険だ」


「……ハヤトにぃにが連れてってくれるなら、どこでも……」


 言葉の途中で、エレナは胸を押さえて苦しそうに息を吸った。


 心不全の子に、こんな恐怖を味わわせている。

 俺の腕の中で、こんなに怯えさせている。


 そして——俺は思わず、彼女の耳元で囁いていた。


「エレナ。俺は……本当は今日、お前に大事な話をするつもりだった。どんな状況でも、言うと決めてた」


「え……?」


 一瞬、彼女の瞳が揺れた。

 でも、言葉を続けようとしたその時。


――――ブワァァァァン!


 第二波の大きな揺れが襲い、病室全体が横に傾いた。

 本棚が倒れ、点滴スタンドが転がる。

 天井からほこりが舞う。


 エレナが悲鳴を上げ、俺の胸に顔を埋めた。


「ハヤトにぃにっ……!」


「大丈夫だ、俺が守る!」


 それだけは、絶対に揺らがない。


 たとえ、この建物がどう揺れても。

 世界中がひっくり返ったとしても。


 俺は、彼女を離さない。


 この瞬間、恋も、医療も、恐怖も、全部が交錯していた。

 けれど俺は迷わなかった。


 この手で必ず守る。


 そして——

 この揺れが収まったら、必ず続きを言う。


 エレナに、ちゃんと届ける。


 俺の本物の想いを。


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