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倒れないでくれ! ――限界と選択を描く医療ヒューマンドラマ――  作者: 東雲 明
四年生編:倒れず走る四年生

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第87話 影の王の阻止

昼休みのアカデミー中庭は、冬の気配を孕みながらもどこか柔らかい陽射しに包まれていた。ついさっきまで、俺は講義資料の整理とインターン先の病棟に送る報告書の修正に追われていて、心身ともにすり減っていたはずだ。

 それなのに、胸の奥は妙にざわついていた。


 ――エレナに、本物のプロポーズをする。


 その決意を固めた直後から、妙に世界が色濃く見え始めていた。嬉しいような怖いような、得体の知れない感覚が渦を巻く。講義のホワイトボードの文字がにじんだり、資料の文字が読めなくなるたび、俺は心の中で何度も深呼吸をしていた。


 そして今。

 エマとテオが、俺の進路相談を口実に呼び出した……ように見せかけて、どう考えてもからかいの続きである。二人のいつもの掛け合いはまだいい。問題は――。


「……来たわよ、ハヤト」


 エマが目線を向けた先。

 中庭の向こう、蛇寮の学生たちに囲まれ、中心に立っているのは──マルクス・ヴェルナー。


 金髪を撫でつけるように整え、蛇寮の象徴である深緑のコートを羽織り、周囲から距離を置いて歩くその姿は、まるで自分こそ世界の中心だと言わんばかりだ。蛇寮の学生たちも、自然と彼に道を空けている。


「やべ……出たな、蛇寮の影の王……」

 テオがぼそりとつぶやく。

 冗談めかしてはいるが、視線はどこか硬い。


 俺は息をひとつ整えた。

 彼と会いたいと思ったことは、一度もない。むしろ関わりたくない。

 しかし、今日ばかりは嫌な予感がしてならなかった。


 ――なぜ今日、マルクスがわざわざこの中庭に?


 蛇寮の連中は普段、特別棟側のカフェテリアで過ごしている。寮ごとに交流の少ないアカデミーでは、中庭にまで出張ってくるのは珍しい。


「ねえ、ハヤト。あれ……見て」

 エマの声がわずかに震えた。


 マルクスの背後。

 そこに、エレナがいた。


 白いカーディガンに水色のワンピース。退院許可はまだ先だけれど、医療棟から午前授業に向かう途中らしく、書類を抱えている。

 彼女の周囲に、蛇寮の男子たちがさりげなく壁のように並んでいた。圧力を与えるほど露骨ではないが、素人目にも“囲っている”と分かる距離感。


 胸が――熱くなる。

 嫌な熱だ。

 喉の奥がじりじりと焼けるような、抑えにくい焦燥と怒り。


 俺は歩きだした。

 エマとテオも続く。


「おい、待てよハヤト!」

「突っ込むのは危険よ!」


 二人の声が背中に届く。

 だが、脚は止まらなかった。


 エレナの顔。

 少し困ったように、眉を下げている。

 誰かに呼び止められて戸惑っているときの、あの表情だ。

 俺は知っている。

 あれは、無理して笑ってる時の顔だ。


 胸の奥が、きゅっと締まった。


 俺は彼女の最年長の兄代わりとしてここにいるわけじゃない。

 ただの保護者でも、病院スタッフでもない。


 ――エレナの恋人として、守りたいんだ。


 その思いが身体を押し動かしていた。


◆◆◆


 近づくほど、マルクスの存在感は冷たい刃物のように鋭くなっていった。


「インゼル嬢。あなたの症例、非常に興味深い」

「……あ、あの……」


 興味深い、なんて言葉で表すな。

 治療すべき“患者”の人生を、まるで特殊な宝石みたいに扱うな。


 マルクスに医学的才能があるのは確かだ。学年でも優秀で、研究班からも一目置かれている。

 しかし――その才能に倫理が追いついていない。


 そして、俺は気づいてしまった。

 マルクスの手には、小さな黒いケース。

 見覚えがある。高級ブランドのジュエリーケースだ。


 ――まさか。


 心臓が跳ねた。

 胃が裏返りそうだった。


「君の病状を理解した上で、私は君に未来を示したい。

 インゼル嬢。君には特別な価値が……」


「そこまでだ、マルクス」


 気づいたら、声が出ていた。

 周囲の蛇寮の男子たちの視線が、一斉に俺に向く。


「……キサラギ君、か」

 マルクスが薄く笑う。

 その笑みの裏に、侮蔑に近い感情が隠れているのが分かった。


「その子に近づきすぎだ」

「近づきすぎ? 私はただ、医学的観点から未来の選択肢を――」


「医学の話をするなら、まず彼女の心拍数を見ろ」

 俺はエレナの手にそっと触れた。

 驚いたように、彼女が名前を呼ぶ。


「……ハヤトにぃに」


 手は冷たく、かすかに震えている。

 中庭の冷たい風のせいじゃない。

 囲まれて、無理に笑わされて、心臓に負担がかかっている。


「これでも患者に配慮してるつもりか?」

 俺は低い声で言った。


 予想外だったのか、マルクスが一瞬だけ目を細めた。


「……ずいぶんと感情的だな。キサラギ君らしくない」

「俺は彼女の担当医じゃない。感情的になって当然だろ」


 周囲の空気が張り詰める。

 蛇寮の学生たちもざわめき始めた。


 俺は視線を逸らさずに続けた。


「エレナを“価値”なんて言葉で括るな。

 彼女は、誰かの未来を飾るアクセサリーじゃない」


 その言葉に、エレナが小さく息を呑んだのが分かった。


 マルクスは、ほんの一瞬だけ無表情になる。

 だがすぐに、冷たい笑みを浮かべた。


「……まさか、君のような優等生が恋愛沙汰で声を荒げるとはね。

 キサラギ君。君がどれだけ完璧でも、インゼル嬢の病状は重い。

 君に彼女を守りきれるのか?」


「守る。

 俺は、彼女を守るためにここにいる」


 言葉にした瞬間、自分の心の奥底にあるものが形になった気がした。

 嘘でも誇張でもない。

 本気だ。


 彼女の病気と向き合い、支え続ける覚悟。

 簡単な道じゃない。

 でも、俺は逃げない。


 マルクスの眉がわずかに動いた。


「……そうか。ならば、見せてもらおう。

 キサラギ・ハヤト。

 君がどこまで彼女の未来を背負えるか」


 そして、マルクスはエレナの前に差し出していたジュエリーケースを閉じた。


「今日のところは引こう。

 だが、私は諦めない。

 インゼル嬢の価値は唯一無二だ。

 医療的にも、そして……個人的にも」


 言い残し、蛇寮の学生たちを連れて去っていく。

 冷たい風が、彼らの残り香のように中庭を通り抜けた。


◆◆◆


「……ハヤトにぃに」


 か細い声。

 振り向くと、エレナが俯いたまま袖を握っていた。


「ごめん……迷惑、かけた……?」


「迷惑なんかじゃない」

 俺は頭を振った。

 むしろ、俺の方こそ守るのが遅れた。


「怖かったんだろ。ごめんな」


 エレナは目を潤ませ、ぎゅっと俺の腕にしがみついた。


「……ハヤトにぃにが来てくれたから……大丈夫だった」


 その言葉に、胸の奥で何かがほどけていく。


 あぁ、この子を守りたい。

 誰よりも大事にしたい。


 その思いが、また強くなった。


「ハヤト、やるじゃん……!」

「珍しくかっこよかったわよ」


 エマとテオが駆け寄ってきた。

 ただ、二人の顔には緊張の名残がある。


「マジで殴り合いになるかと思った……」

「蛇寮相手にあれは勇気あるわね……」


 俺は小さくため息をついた。


「殴らないよ。

 ただ……どうしても、言わなきゃいけなかった」


 エマがふっと微笑んだ。


「分かるわ。あの子を守りたいんでしょ」


 テオがにやりと笑う。


「ついにプロポーズ……本気なんだな、ハヤト」


 俺はエレナの手を握り直し、そっと微笑んだ。


「……あぁ。本気だよ」


 エレナの頬が赤く染まる。

 その小さな鼓動が、俺の掌に伝わる。


 マルクスは、これで引き下がるような男じゃない。

 これからもっと厄介なことが起こるだろう。

 でも――。


 俺は決めた。

 彼女を守り抜く。

 そのためなら、どんな困難でも乗り越えてみせる。


 中庭の冬の風は冷たかったが、

 エレナの手の温度は、確かにそこにあった。

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