第86話 からかわれる理由
翌朝、俺は珍しく目覚ましより早く目を覚ました。
昨日のことが胸の奥をずっと占めていて、眠りが浅かったせいだろう。
エレナの名前を呼んだ時の表情、袖を掴んで歩幅を合わせてくれた温度。
全部が胸の奥で何度も反芻される。
——次の休みに、プロポーズをする。
その決意が強すぎて、思考がそこへ戻ってしまう。
いや、むしろ戻らずにはいられなかった。
顔を洗って白衣に着替えると、鏡の前で深呼吸した。
医学生らしく冷静でいようと心の中で言い聞かせるが、気を抜けばすぐに昨日の“あの笑顔”が浮かんでしまう。
そんな状態のまま医療棟に入ったせいだ。
何かと顔に出る俺の性格は、案の定——
「はぁ〜い、ハヤト。顔ゆるんでるけど、ナニカあったのかしら?」
背後から、エマの声。
しかも確信犯の声音だ。
振り返ると、エマはカルテを抱えながらも目を細め、まるで面白い玩具を見つけた子どものような顔をしていた。
「別に。何もない」
言った瞬間、エマの眉がひくりと動いた。
“隠してる顔だわね”と言わんばかりの笑みだ。
そこへ拍車をかけるように、背後から元気な声が響いた。
「ハヤト〜!なんか目の下クマあるのに、顔ニコニコしてない?怖いんだけど」
テオだった。
朝からおにぎりを頬張りながら歩いてくるあたり、もはや平常運転だ。
「テオ、お前は食べながら廊下歩くなって何度言った」
「だってさ〜、朝練で腹すいちゃって……って、え?ハヤト、耳まで赤いよ?」
「赤くない」
「いや赤いって。ほらエマ、見て!」
「見てって言われなくても見えてるわよ。ハヤト、あなた隠し事下手なんだから」
二人してじわじわ距離を詰めてくる。
俺は思わず一歩後ずさった。
……まずい。
このままでは絶対に面倒な方向へいく。
テオはおにぎりを飲み込み、わざとらしく腕を組んだ。
「さてはさ〜、昨日の午後、エレナちゃんとデートしてたんでしょ!」
「なんで知ってるんだ」
「え?だってエレナちゃんが嬉しそうにリハビリ担当の先生に“今日はハヤトにぃにと一緒に歩いたの”って話してたもん」
……完全に予想外のところからバレていた。
エマはにっこりと笑った。
いや、正確には“にっこりとした悪魔の笑み”だ。
「あら、それはいいわねぇ。で?歩いただけじゃないんでしょう?」
「エマ、お前な……」
「ハヤト、聞かせなさい。昨日何があったの?」
カルテを抱えた姿で詰め寄るなと言いたい。
が、言ったところで止まらないのは分かっていた。
テオは目をキラキラさせて追撃してくる。
「ねえハヤト、まさか……手、つないだ?」
エマが即ツッコミする。
「つなぐに決まってるでしょ、バカテオ。あの子、心臓弱いんだから歩くとき支えが必要なのよ」
「えっ……じゃあハヤト、ずっと隣で支えて……?うわぁ……青春……」
テオは胸に手を当て、勝手に感動している。
違う、そういう話ではない。
「お前ら、騒ぐな。本当に大したことはしてない」
言いつつ、どこか落ち着かない。
昨日のことを思い出すと胸が熱くなり、自然と視線を逸らしてしまう。
その仕草を見逃す二人ではなかった。
エマは俺の横に立ち、声を潜めて言った。
「——ねぇ、ハヤト。あなた、昨日……嫉妬したでしょ?」
心臓が跳ねた。
なぜそんな一言で本質を突くのか。
「……別に」
「別にって言ったわね。図星の時の顔よ、それ」
テオまで食いつく。
「え?嫉妬?ハヤトが?珍しいー!」
エマはゆっくりと微笑んだ。
「ユウトくん、って名前出たんでしょう?」
「……エレナから聞いたのか?」
「言わなくても分かるわ。あの子、あなたと話すとき“クラスの男の子”の話は慎重になるもの」
テオはと言えば、なぜか興奮している。
「うおお、ハヤト!嫉妬とか青春すぎる!!」
俺は額を押さえ、深くため息をついた。
話が大きくなる前にここで引き上げたい——と思った矢先、エマが再び口を開いた。
「で、どうするの?このまま曖昧にしておく気?」
「……曖昧にはしない」
言った瞬間の自分の声が、驚くほど真っ直ぐだった。
エマもテオも、一瞬だけ目を丸くする。
テオが先に言葉を取り戻した。
「えっ、それって……もしかして……?」
エマの表情がふっと柔らかくなる。
「……ハヤト。あなた、決めたのね」
彼女のその言い方は、からかいではなかった。
どこか見守るような、静かな優しさが混ざっていた。
テオはハッとしたように顔を上げる。
「まさか……プロポーズ……?」
廊下の空気が一瞬だけ止まった。
俺はごくりと喉を鳴らし、言葉を絞り出した。
「……次の休みに、エレナと話す。ちゃんと」
その“ちゃんと”の中に込めた全てを、二人は理解したらしい。
エマは微笑み、テオは感極まって肩を震わせていた。
「ハヤト……お前……大人になったなぁ……」
「誰がいつまでも子どもだと言った」
「いや、俺は“今日の朝ハヤトが赤面しながら歩いてきたの見て、あ、これは恋する医療学生だなって……”」
「テオ、黙れ」
エマがくすりと笑う。
「……ハヤト、頑張りなさい。でも無理は禁物よ。あなた、夜勤明けだったんでしょ?」
「まあ……少しは無茶したが」
「そうでしょうね。エレナのためなら頑張っちゃうんだから……ほんと、わかりやすいわ」
その言い方は冷やかし半分、優しさ半分だった。
だからこそ、胸の奥がじんと温かくなる。
テオはというと、なぜか両手をわきわきさせている。
「ハヤト〜!当日、俺、準備手伝うよ!花とか!服とか!台本とか!」
「台本はいらない」
「絶対いるって!緊張しすぎて“俺と結婚……いや、入院しよう!”とか言っちゃうタイプでしょ!」
「言わない。絶対に言わない」
エマが肩を揺らしながら笑う。
「ふふ……でも、言いかねないわね。あなた、感情が混ざると医療用語出るじゃない」
「やめろ、からかうな」
二人は顔を見合わせ、声を揃えて言った。
「「だって楽しいんだもん」」
……まったく、こいつらは。
それでも。
こうやって笑ってくれる仲間がいることが、少しだけ心を軽くする。
緊張と不安で押しつぶされそうな決意も、二人に言葉にしたことで形を持った。
最後にエマは軽く俺の背中を叩き、言った。
「ハヤト。エレナの気持ちを信じなさい。あの子は、あなたが思ってるよりずっと強い子よ」
胸の奥で、静かに何かが灯る。
テオも満面の笑みで言う。
「プロポーズ大作戦、応援してる!」
「……勝手に名前つけるな」
俺は二人に背を向け、白衣の胸元を整える。
決意はもう、揺らがない。
次の休みに必ず、エレナに言う。
——“俺の大切な人になってください”と。
その言葉が、きちんと届くように。




