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倒れないでくれ! ――限界と選択を描く医療ヒューマンドラマ――  作者: 東雲 明
四年生編:倒れず走る四年生

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第85話 君の名前が胸を刺す理由

 夜勤明けの身体は、いつにも増して重かった。

急患の処置が続き、仮眠室に入る暇さえなかった。

白衣の袖を腕から抜いた瞬間、そのまま椅子に沈み込みそうになる。

そんな俺の手首を、細い指が容赦なく掴んだ。


「ハヤトにぃに、デート行こ。今日だよ、今日しかないの」


エレナだ。

いつもより頬が赤い。朝のリハビリ後で疲れているはずなのに、その瞳はやけに輝いていた。


「エレナ、俺は夜勤明けなんだ。少しだけ休ませてくれないか?」


頼む、と続けようとした瞬間、彼女は首を振った。


「だめ。だって、三日間も会えてなかったんだよ。私、今日ずっとそのことばっか考えてたんだから」


ため息…じゃなくて、息が漏れた。

こう言われると、断れない。

いや、断りたくなかった。


エレナは午前中の授業を終えると、午後は検査とリハビリで時間が埋まる。

その限られた“元気な時間”を、俺のために使うと言ってくれている——それだけで胸の奥が温かくなるのを感じた。


「……わかった。行こう」


「うん。今日はいっぱい歩こ」


言い方が子どもみたいで、思わず笑ってしまう。

でもその無邪気さが、俺には何より救いだった。



学院の並木道は、季節の匂いが変わり始めていた。

乾いた落ち葉が風に揺れ、歩くたびカサ、と小さな音を立てる。


エレナは俺の腕にしがみつき、靴音を弾ませて歩く。


「ねえ、見て。空、きれい」


 彼女の声は明るい。

その横顔を見るだけで疲労が少しずつ溶けていく気がした。

夜勤明けで身体は限界でも、心だけは妙に軽かった。


 それでも、どこか落ち着かないものが胸の奥でざわついていた。

理由はまだ言葉にならない。

ただ、エレナの笑顔を見ていると、嬉しさと同時に、どこか焦りのようなものが生まれる。


「そういえばね、今日クラスで——」


 エレナは歩を緩め、拾った落ち葉をくるくる指先で回しながら言った。


「ユウトくんがさ、またノート貸してくれて……あの、違うの。仲がいいとかじゃなくて、その……」


ユウト。

また、あいつか。


 一瞬で胸がざわつく。

言葉が喉に引っかかり、思わず足を止めてしまった。


「……ユウト、ね」


自分でも驚くほど低い声が出た。

エレナははっとして、俺の顔を覗き込む。


「ち、違うんだって!ほんのちょっと話すだけで……それに、私が休んでたらノート貸してくれるだけで……!」


「そんなに慌てて説明するってことは、よっぽど仲がいいんだろ?」


 言った瞬間、しまったと思った。

いつもなら絶対に言わないような、拗ねた言葉。

夜勤明けで気持ちが弱っているせいか、胸の奥に小さく刺さった棘が、つい言葉になってしまった。


エレナは落ち葉を手から離し、小さく俯いた。


「……ハヤトにぃに、怒ってる?」


「怒ってはない。ただ……」


ただ、気になるだけだ。

ただ、お前が他の男の名前を口にするたび、胸がざわつくんだ。

そんな情けない言葉は、とても口にできなかった。


「俺なんかより年齢も近いし、同じクラスで毎日顔合わせてるし……そういうもんだろ」


「ハヤトにぃにの方が、ずっとずっと大事だよ!」


声が重なり、思わず俺はエレナを見る。

真剣な瞳。

誤魔化しや気休めじゃないとすぐ分かった。


「ユウトくんが優しいのは……私が病気だからだよ。それに、私が好きなのは——」


最後の言葉は、風がさらっていった。

けれど、その温度だけはしっかり伝わった。


俺は静かに息を吐き、エレナの頭に手を置いた。


「……ごめん。少し意地悪言った」


「うん。わかってる。ハヤトにぃに、今日はすごく疲れてるもん」


そう言いながら、エレナは俺の袖をそっと掴み、歩幅を合わせるようにゆっくり歩き出した。

さっきまでのはしゃぎ方が嘘みたいに、優しい歩き方だった。


「ねえ、帰ったら少し寝てね?私のせいで倒れたら……いやだよ」


胸の奥に、柔らかい痛みが走った。

こんなにも思ってくれる子を、どうして不安にさせる言葉を言ってしまったんだろう。


エレナは、俺が思っている以上に強くて、弱くて、まっすぐで。

その全部を預けてくれている。

その事実が急に怖くなるほど大きかった。


——この子を、失いたくない。


それが、胸のざわめきの正体だと気づいた瞬間、足が止まった。


エレナが振り返る。


「ハヤトにぃに?」


「……エレナ」


名前を呼ぶと、彼女は少し照れたように笑った。

その笑顔を見た途端、決意が胸の奥で固まった。


俺はエレナの横に並び直し、歩き出す。

ポケットに入れた手が、小さく震えているのが自分でもわかる。


本当はまだ準備すらできていない。

指輪も、言葉も、場所も。

でも、決意だけはもう揺るがない。


曖昧なままではいられない。

彼女が他の誰かの名前を口にするたび、不安になる自分が嫌だ。

その不安を彼女に背負わせるくらいなら——


「エレナ」


「なに?」


「次の休み、時間空けておいてほしい」


「え?どうしたの?」


「ちゃんと話したいことがある」


大袈裟ではなく、本当に手が震えていた。

でも、エレナは小さく頷いた。


「うん。空けておく」


その笑顔を見た瞬間、心の奥でぼんやりしていた未来が、少しだけ輪郭を持った。


——次の休みに。

エレナに、本物のプロポーズをする。


どんな返事でも受け止める覚悟で。


大切な人を、大切だと伝える勇気を持つために。

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