第85話 君の名前が胸を刺す理由
夜勤明けの身体は、いつにも増して重かった。
急患の処置が続き、仮眠室に入る暇さえなかった。
白衣の袖を腕から抜いた瞬間、そのまま椅子に沈み込みそうになる。
そんな俺の手首を、細い指が容赦なく掴んだ。
「ハヤトにぃに、デート行こ。今日だよ、今日しかないの」
エレナだ。
いつもより頬が赤い。朝のリハビリ後で疲れているはずなのに、その瞳はやけに輝いていた。
「エレナ、俺は夜勤明けなんだ。少しだけ休ませてくれないか?」
頼む、と続けようとした瞬間、彼女は首を振った。
「だめ。だって、三日間も会えてなかったんだよ。私、今日ずっとそのことばっか考えてたんだから」
ため息…じゃなくて、息が漏れた。
こう言われると、断れない。
いや、断りたくなかった。
エレナは午前中の授業を終えると、午後は検査とリハビリで時間が埋まる。
その限られた“元気な時間”を、俺のために使うと言ってくれている——それだけで胸の奥が温かくなるのを感じた。
「……わかった。行こう」
「うん。今日はいっぱい歩こ」
言い方が子どもみたいで、思わず笑ってしまう。
でもその無邪気さが、俺には何より救いだった。
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学院の並木道は、季節の匂いが変わり始めていた。
乾いた落ち葉が風に揺れ、歩くたびカサ、と小さな音を立てる。
エレナは俺の腕にしがみつき、靴音を弾ませて歩く。
「ねえ、見て。空、きれい」
彼女の声は明るい。
その横顔を見るだけで疲労が少しずつ溶けていく気がした。
夜勤明けで身体は限界でも、心だけは妙に軽かった。
それでも、どこか落ち着かないものが胸の奥でざわついていた。
理由はまだ言葉にならない。
ただ、エレナの笑顔を見ていると、嬉しさと同時に、どこか焦りのようなものが生まれる。
「そういえばね、今日クラスで——」
エレナは歩を緩め、拾った落ち葉をくるくる指先で回しながら言った。
「ユウトくんがさ、またノート貸してくれて……あの、違うの。仲がいいとかじゃなくて、その……」
ユウト。
また、あいつか。
一瞬で胸がざわつく。
言葉が喉に引っかかり、思わず足を止めてしまった。
「……ユウト、ね」
自分でも驚くほど低い声が出た。
エレナははっとして、俺の顔を覗き込む。
「ち、違うんだって!ほんのちょっと話すだけで……それに、私が休んでたらノート貸してくれるだけで……!」
「そんなに慌てて説明するってことは、よっぽど仲がいいんだろ?」
言った瞬間、しまったと思った。
いつもなら絶対に言わないような、拗ねた言葉。
夜勤明けで気持ちが弱っているせいか、胸の奥に小さく刺さった棘が、つい言葉になってしまった。
エレナは落ち葉を手から離し、小さく俯いた。
「……ハヤトにぃに、怒ってる?」
「怒ってはない。ただ……」
ただ、気になるだけだ。
ただ、お前が他の男の名前を口にするたび、胸がざわつくんだ。
そんな情けない言葉は、とても口にできなかった。
「俺なんかより年齢も近いし、同じクラスで毎日顔合わせてるし……そういうもんだろ」
「ハヤトにぃにの方が、ずっとずっと大事だよ!」
声が重なり、思わず俺はエレナを見る。
真剣な瞳。
誤魔化しや気休めじゃないとすぐ分かった。
「ユウトくんが優しいのは……私が病気だからだよ。それに、私が好きなのは——」
最後の言葉は、風がさらっていった。
けれど、その温度だけはしっかり伝わった。
俺は静かに息を吐き、エレナの頭に手を置いた。
「……ごめん。少し意地悪言った」
「うん。わかってる。ハヤトにぃに、今日はすごく疲れてるもん」
そう言いながら、エレナは俺の袖をそっと掴み、歩幅を合わせるようにゆっくり歩き出した。
さっきまでのはしゃぎ方が嘘みたいに、優しい歩き方だった。
「ねえ、帰ったら少し寝てね?私のせいで倒れたら……いやだよ」
胸の奥に、柔らかい痛みが走った。
こんなにも思ってくれる子を、どうして不安にさせる言葉を言ってしまったんだろう。
エレナは、俺が思っている以上に強くて、弱くて、まっすぐで。
その全部を預けてくれている。
その事実が急に怖くなるほど大きかった。
——この子を、失いたくない。
それが、胸のざわめきの正体だと気づいた瞬間、足が止まった。
エレナが振り返る。
「ハヤトにぃに?」
「……エレナ」
名前を呼ぶと、彼女は少し照れたように笑った。
その笑顔を見た途端、決意が胸の奥で固まった。
俺はエレナの横に並び直し、歩き出す。
ポケットに入れた手が、小さく震えているのが自分でもわかる。
本当はまだ準備すらできていない。
指輪も、言葉も、場所も。
でも、決意だけはもう揺るがない。
曖昧なままではいられない。
彼女が他の誰かの名前を口にするたび、不安になる自分が嫌だ。
その不安を彼女に背負わせるくらいなら——
「エレナ」
「なに?」
「次の休み、時間空けておいてほしい」
「え?どうしたの?」
「ちゃんと話したいことがある」
大袈裟ではなく、本当に手が震えていた。
でも、エレナは小さく頷いた。
「うん。空けておく」
その笑顔を見た瞬間、心の奥でぼんやりしていた未来が、少しだけ輪郭を持った。
——次の休みに。
エレナに、本物のプロポーズをする。
どんな返事でも受け止める覚悟で。
大切な人を、大切だと伝える勇気を持つために。




