第82話 マルクスの更なる嫌がらせと、エレナの怒り
四年生の始業式。
静かな講堂に、ざわざわとした空気が流れていた。俺はテオとエマと並んで座っていたが、落ち着かなかった。春の空気はまだ冷たくて、胸の中までざらつく。
理由はわかってる。
——マルクスだ。
蛇寮の仲間を連れて、俺たち獅子寮を露骨に見下すような視線を送ってきている。
あの嫌な笑みを見るだけで、胃が重くなる。
「やっべぇ、なんか今日のマルクス、いつも以上に怖くね?」
隣でテオが小声で言う。声が震えている。
「いつも怖いけど、今日は……嫌な予感がするな」
エマが眉を寄せた。
俺も同じだった。
なにも起きなきゃいい——そう思っても、マルクス相手じゃその願いは通じない。
始業式が終わり、講堂を出た瞬間だった。
「よぉ、キサラギ。新学期の挨拶だ」
背中に冷たい声が刺さった。
振り返ると、マルクスが腕を組んで立っていた。取り巻きが三人、いや、五人……いつの間に囲まれたんだ。
「挨拶される筋合いはないけど?」
俺はできるだけ淡々と返した。喧嘩する気はない。
けれど、マルクスの顔にはもう“やらかした後”みたいな余裕が漏れていた。
「キサラギ、お前の評判……ちょっと落ちてるぞ?」
その瞬間、嫌な寒気が走った。
「……何をした」
「別に? 本当のことを流しただけだよ」
取り巻きのひとりがスマホを突き出す。
SNSの匿名掲示板。
《キサラギは裏で患者の情報を勝手に持ち出してるらしいぞ》《首席って言われてるけどコネらしい》
——嘘だ。全部嘘だ。
でも、拡散されてる。
“火のないところに煙は立たない”っていう、最悪の理屈が俺の喉を締めつけた。
「やめろよ……こんなことして何になる」
声が震えた。悔しさと、情けなさと、怒りで。
しかしマルクスは肩をすくめただけだ。
「何って、お前が首席でい続けるの、気に入らなくてな。俺の前を歩くなよ」
そこで、もう一つ爆弾が落とされた。
「そういえば……お前のPC、管理甘かったぞ?」
は……?
耳が一瞬聞こえなくなるほどの衝撃。
「データ、ちょっといじっといた。患者さんの“数値”、変わってるかもなぁ?」
俺の胃がきゅっと掴まれた。
胸がざりざりと削られるような痛みで、息がうまくできない。
「……最低だお前」
かろうじて出た声は、自分でも驚くほど低かった。
マルクスの笑みは薄く、冷たかった。
「最低? 褒め言葉だな。じゃあな、キサラギ。新年度もよろしく」
取り巻きを連れて去っていく背中を睨みつけても、胸の中の怒りは全く収まらなかった。
⸻
■ 寮に戻った後の絶望
部屋に戻ると、手が震えていた。
PCを開いた瞬間、嫌な予感は確信に変わった。
——データが……おかしい。
患者カルテの数値が一部改ざんされている。
具体的には、心疾患の患者の血中濃度データが書き換えられていた。
なぜそこを?
いや、理由は簡単だ。
俺が担当して研究している領域だからだ。
「……くそっ!」
机を拳で叩いた。
悔しさが滲んで、視界が歪んだ。
こんなこと、誰に相談すればいい。
俺は首席で、人一倍責任を求められる立場なのに……。
⸻
■ エレナの登場
その時、ドアが勢いよく開いた。
「ハヤトさん!」
肩が震えた。
振り返ると、エレナが息を切らして立っていた。
学校終わりのはずなのに、制服のまま、靴まで走ってきた跡がついている。
「どうしたエレナ、こんな時間に……」
「ハヤトさんの評判、変なの流れてて……見た瞬間、ムカつきすぎて飛んできた」
彼女の眉がぎゅっと寄っていて、小さな体のどこにそんな怒りを詰め込んでいるんだと思うほどだった。
「マルクスの仕業でしょ。あいつ……前から嫌だったけど、今日で限界きた」
エレナは震える拳をぎゅっと握った。
「ハヤトさんがそんなことするわけないもん! 患者さんのデータ勝手に持ち出す? コネで首席? ふざけないでよ!」
まっすぐ俺を見て叫ぶ声が、胸の奥まで刺さった。
——誰よりも俺を信じてくれている。
「エレナ……」
俺は言葉に詰まった。
苦しくて、情けなくて、でも同時に救われるような気持ちがあった。
「パソコン……見せて」
「いいけど……」
エレナは画面を見た瞬間、眉を吊り上げた。
「は? 数値いじってるじゃん。最低……ほんとに最低」
そしてエレナは、小さな声でつぶやいた。
「……ハヤトさん、悔しい?」
俺は一瞬言葉を失った。
でも、逃げたくないから正直に言った。
「悔しい。情けない。俺の管理不足だって言われたら……反論できない」
エレナはすっと俺の手を握った。
「ハヤトさんのせいじゃないよ。悪いのはマルクス。ぜんぶあいつ。
ハヤトさんは……誰より頑張ってるの、私が一番知ってるから」
胸の奥が熱くなった。
俺は、彼女の言葉に何度救われただろう。
「……ありがとう、エレナ」
エレナは俺の手をぎゅっと握ったまま、真剣な目で言った。
「戦おうよ。泣き寝入りしない。ハヤトさんが信じてる道を守るために。
私も一緒にやるから」
その瞳に嘘は一つもなかった。
俺はゆっくりと頷いた。
「……ああ。絶対にマルクスを野放しにしない」
その瞬間、胸の奥に灯った小さな火が、確かな炎になった。




