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倒れないでくれ! ――限界と選択を描く医療ヒューマンドラマ――  作者: 東雲 明
四年生編:倒れず走る四年生

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第81話 暴走する噂と救急実習への影響

 翌朝、いつもの講義棟へ向かう途中、胸の奥が重く沈んでいた。

 昨日のデータ改ざん──あれはただの嫌がらせなんかじゃない。

 俺の実習評価、ひいては医療者としての信用を、根本から壊そうとしている。


 その事実が、じわじわと体の中を冷やしていく。


 通学路を歩く間にも、周囲からひそひそと声が聞こえた。


「ねぇ、聞いた? キサラギ先輩、実習で投薬ミスしたって……」

「救急科の先生たちにも話が伝わったらしいよ」

「四年生なのに信じられない」


 まるで、俺がその場にいないかのような話し方だった。


 胸が痛む。

 ……いや、痛むなんて軽い言葉じゃない。

 鋭いものを胸の内側に押し込まれて、息ができなくなる感覚だ。


 そんな中、講義室の前でエマとテオが俺を待っていた。


「ハヤト……大丈夫?」

 エマの声は落ちついているのに、その目は明らかに怒りを帯びていた。


「大丈夫そうに見えるか?」

 言ってから、自分がひどく尖った声を出してしまったことに気づいた。


 テオが慌てて首を振った。


「ち、ちがうよ! 責めてるわけじゃなくて! 俺、ハヤトの味方だから!」

 その必死さが逆に胸に沁みて、俺は深く息をついた。


「……分かってる。ありがとう。昨日から、気持ちが少し乱れてんだ」


 エマがスマホを開いて、学校の掲示板アプリを見せた。

 そこには──俺の名前が、悪意ある噂と一緒に並んでいた。


《救急実習で重大な記録ミス》

《患者データの書き換え疑惑》

《首席なのは表向きだけ?》


 ……最低だ。

 見るに耐えない。


「投稿元は匿名。VPN(ブイピーエヌ)経由。痕跡が巧妙に隠されてる」

 エマは悔しさをごまかすように唇を噛みしめた。


「技術的に可能なのは……」

 テオがつぶやく。


「……マルクスしかいない」

 俺は言い切った。


 いや、本当は言い切ってはいけない。証拠もない。

 だけど──

 蛇寮が俺たち獅子寮を嫌っていることは、誰もが知っている。


 特にマルクスは、俺に異常なほど執着している。


 “首席の座は相応しくない”

 昨日あいつが言ったその言葉が、今も耳にこびりついていた。



 午前の講義は集中できないまま時間だけが過ぎた。

 講義が終わった瞬間、救急科の担当教員──白髪まじりの佐伯(さえき)先生が俺を呼び止めた。


「キサラギ、少し来なさい」


 嫌な汗が背中をつたう。


 佐伯先生は学園でも特に実力と厳しさで知られている。

 その先生がわざわざ俺だけを呼ぶということは──


 廊下の奥の小部屋。

 ドアが閉まる音がやけに大きく響いた。


「……噂は聞いているな?」

「……はい」


 俺は正直にうなずいた。


 佐伯先生は机の上に置いたファイルを指さした。


「これがお前の実習データだ。提出された内容を確認したが……確かに不自然な点が多い。特に、三日前の投薬記録」


 三日前。

 俺は脳内の記憶を必死に辿った。

 あの日、担当したのは心不全で入院していた高齢の患者さんだった。

 処方量は慎重に確認し、ダブルチェックも行った。

 ミスなんて、絶対ありえない。


「先生、俺……こんな記録、入力していません」

「だろうな」

 佐伯先生は、俺の言葉を遮るように言った。


「あの日、同じ病棟にいた別の医師からお前の対応の報告を受けている。正確で冷静だった、と」


 胸の奥が少しだけ軽くなった。

 でも安心ではなく──悔しさで震えた。


「なら……なぜ俺が疑われるんですか」


 自分でも驚くほど声が震えていた。


 佐伯先生は腕を組み、静かに言った。


「悪意のある者が、お前に罪を着せようとしている可能性が高い。だが残念ながら学園としては、評価に関わる“記録”が改ざんされている以上、調査を進めざるを得ない」


 胃の奥がぎゅっと痛む。


 わかっている。

 医療現場では記録がすべて。

 その“記録”に不正があれば、疑わざるを得ない。


 だけど──俺はやってない。


「キサラギ。お前の普段の努力を私は知っている。だが、それでも“証拠”を見なければ判断できん。……分かるな?」

「……はい」


 悔しかった。

 情けなかった。

 怒りで喉の奥が熱くなるのに、涙がこぼれそうになるのは悔しさのせいだ。


 佐伯先生は机に手を置き、少しだけ優しい声で言った。


「お前には救急科での更なる実習が予定されていたが……調査が終わるまで、一時待機だ」


 その言葉は胸に鋭く突き刺さった。


 救急実習は、俺が最も成長できる場所だ。

 そこで学んだことは、医療者としての未来に直接つながっている。


 その実習から外されるということは──

 俺の未来が曇ってしまうということだ。


 視界が揺れた。

 けれど、泣くわけにはいかなかった。


「……分かりました」


 これが、現実だ。



 小部屋を出た瞬間。

 廊下の端で誰かが待っていた。


 ──マルクス。


 腕を組み、まるで俺の悲しむ顔を楽しむかのように目を細めている。


「救急実習、外されたんだって?」

 その声は、甘い毒のようだった。


「……お前、どこまでやる気だ」

「僕はただ、真実を広めているだけだよ。キサラギ、君こそ反省すべきじゃない?」


 吐き気がする。

 怒りで視界が赤く染まりそうになった瞬間──


「ハヤト!」


 テオが走ってきた。

 エマも息を切らしながら後ろに続く。


 テオは俺の腕を掴んで、必死に顔をのぞき込んだ。


「外されたって……本当なの?」

「……ああ」


 テオの目が大きく揺れた。


「そんなの、絶対おかしいよ! ハヤトのミスじゃないのに!!」


「ウソが真実を上回るのが“世間”よ。……でも、私たちは違う」

 エマが静かな声で言った。


「エマ……」


「私たちは、あなたの努力も姿勢も、全部知ってる。だから絶対に負けないで。……一緒に戦いましょ。あなたを守るために」


 胸が熱くなった。

 視界がじわりと滲む。


 けれど──その涙は、昨日までの悔しさだけではない。


 俺には、こんなにも心強い仲間がいる。

 この二人が、俺を信じてくれている。


 なら、俺は負けられない。


「……ありがとう。テオ、エマ。

 俺、絶対に真相を突き止める。どんな手を使ってでも」


 マルクスが肩をすくめ、冷たい笑みを浮かべた。


「へぇ……楽しみにしてるよ、キサラギ」


 その笑みを背中に受けながら、俺は拳を固く握る。


 逃げない。

 絶対に。


 俺の未来も、仲間の未来も、

 あいつなんかに壊させてたまるか。


 戦いはもう始まっている。

 静かで、でも確実に激化していく──そんな戦いが。


 俺は前を向いた。


 ここからが本当の勝負だ。


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