第80話 蛇寮との軋轢
四年生の始業式の朝。
冷えた春風が校舎の壁をなでていく音が、妙に胸に引っかかった。季節は変わっていくのに、俺の胸の奥はどこかざわついている。まるで、今日を境に何かが大きく動き出すような──そんな予感だ。
講堂へ向かうと、学生たちの視線が一瞬だけ俺に集まる。心臓がひゅっと縮む感覚があった。
普段は気にしないのに、今日はなぜか肌に刺さるように痛い。
その理由は、講堂の奥で腕を組んでいた“あいつ”を見た瞬間、はっきりした。
蛇寮の中心──
マルクス・ヴェルナー。
ゆるく笑っているだけなのに、視線の鋭さが空気を切り裂いている。取り巻きは五、六人。まるで小さな帝国を築いているようだった。
俺はため息をつき、隣を歩くテオとエマに視線を向けた。
テオは紙コップのコーヒーを抱きしめている。相変わらず緊張すると飲み物で手を温めようとする癖が抜けていない。
「……ハヤト、あれ絶対なんか企んでるよね?」
「見ただけで嫌な汗かいてきたわ……」とエマ。
俺は二人の声を聞きながら、ゆっくり首を横に振った。
「気にすんな。どうせ、またいつもの嫌がらせだろ」
本心では、そんな簡単なものじゃないと分かっている。
この一年、蛇寮が俺たち獅子寮を目の敵にしてきたのは事実だ。だけどマルクスはその中でも別格だった。金と権力──その言葉がまるで彼自身の代名詞のように学園中に広まっている。
嫌な予感は、いつだって当たる。
始業式の校長の挨拶、表彰、進級に伴う注意事項。
淡々とした式が終わり、講堂から出ようとした時だった。
「キサラギ、今年も首席なんだって? おめでとう」
背後からかかった声に、俺は足を止めた。
振り返ると、マルクスが立っている。
口角は笑っているのに、目はまるで笑っていなかった。
「……いや、別に首席にこだわってねぇよ」
「へぇ? でも僕は、“君が首席に相応しくない”って証明したくてね」
その言葉に、胸がひやりと冷えた。
いや、冷えたというより、脳のどこかが警告を鳴らした。
──こいつ、本気だ。
周囲の学生が、ざわ……と揺れた空気の中でひそひそと囁きあった。
「キサラギ先輩が相応しくないって、どういう意味?」
「また蛇寮だよ……今年も荒れそう」
俺は眉をひそめ、なるべく冷静な声で返した。
「好きにしろ。ただし……俺の周りまで巻き込むな」
マルクスの目がわずかに細められた。
その一瞬、背後の取り巻きがぞっとするほど静かに姿勢を変えた。
嫌な気配だけが、残った。
◆
その日の昼休み。
学食へ向かう途中、聞こえてきたのは──俺の名前だった。
「ねえ聞いた? キサラギ先輩、前の実習で医療ミスしたらしいよ」
「患者データの管理もずさんだったって……」
頭の中で何かが壊れるような音がした。
「……は?」
つい立ち止まると、テオが慌てて俺にぶつかった。
「ちょ、ちょっと待ってハヤト!? ミスなんて、絶対してないよね!?」
「……そんなわけねぇだろ」
言葉にはしたけれど、胸は不安でいっぱいだった。
だって、なぜそんな噂が“今日”急に流れている?
その理由は、廊下の奥でエマが開いたスマホの画面が教えてくれた。
「……ログインしてみたけど、これ……」
エマは眉を寄せ、画面を俺とテオに向けた。
そこには、
俺が入力したことになっている、見覚えのない処方記録。
明らかに誤った投薬量。
患者への不適切な指示。
指先が震えた。
「……何だ、これ」
「完全に外部から書き換えられてる。しかも、ログを消してある。かなり高度なハッキングよ」
エマが淡々と言ったが、その声は震えていた。
俺は拳を握る。
頭の中が真っ白になって、現実感が薄れていく。
医療に関わる学生にとって、患者データの改ざんは犯罪に近い行為だ。
そんな疑いを一度でも持たれたら──俺の未来は、簡単に崩れる。
「……やりやがったな」
呟いた声は、いつもの自分のものとは思えなかった。
そのとき、テオが俺の肩をぎゅっと掴んだ。
震えているのに、それでも俺を支えようとしている。
「ハヤト……俺、信じてる。ずっと実習一緒だったし。ハヤトがミスなんて、絶対ないもん……!」
その一生懸命さが胸に沁みた。
気づけば、息が苦しくなるほど胸が熱くなっていた。
エマもそっと俺の手元を見る。
「私もよ。あなたがどれだけ患者さんに向き合ってきたか、一番近くで見てきた。だから、そんなデータ……信じるわけないじゃない」
ああ、俺は本当に恵まれている。
弱気になっている場合じゃない。
こんなにも俺を信じてくれる仲間がいるのに。
「……ありがとう。二人がいてくれて、本当に良かった」
その瞬間だった。
廊下の向こうから、ゆっくりと靴音が響いてくる。
蛇寮特有の黒い制服。
歩くたび、周囲の空気が曇ったように揺れる。
そして──マルクスが姿を現した。
「調子はどうだい、“首席”」
あの薄い笑み。
まるで俺の絶望を楽しんでいるようだった。
「──お前か」
気づいたら言葉が漏れていた。
「証拠でもあるのかい?」
マルクスはわざと肩をすくめて見せる。
その余裕が、胸をきつく締めつけた。
俺が怒ることすら想定済み──そう言っているようだ。
「……俺がどう思われようと構わない。でも……俺の仲間にまで迷惑かけるなら、お前を許すつもりはない」
声は低く、震えていた。怒りで震えているのか、悔しさで震えているのか、自分でも分からない。
マルクスはゆっくり歩み寄り、耳元で囁くように言った。
「僕はただ、本当に相応しい人間だけが表に立つべきだと思ってるだけさ。……ねぇ、キサラギ?」
吐き気がするほど冷たい声音だった。
俺はきつく奥歯を噛んだ。
これは、対立なんかじゃない。
戦いだ。
逃げれば、俺だけじゃなくテオもエマも傷つく。
だから──逃げない。
「……上等だ。やってやるよ」
マルクスの表情がわずかに変わった。
その目に宿ったのは、興味とも、警戒ともつかない光。
けれど俺は目を逸らさなかった。
この視線だけは、絶対に下げたくなかった。
仲間を守るために。
そして、自分が積み上げてきたものを守るために。
俺は、立ち向かう。




