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第8話 試練の幕開け

翌日の授業は、上級生による模擬手術の見学から始まった。

たった一日しか経っていないはずなのに、俺の胸には、妙な焦りのようなざわつきがずっと渦巻いていた。

周りの新入生たちは期待や緊張でそわそわしているが、俺は彼らの声が遠く聞こえていた。

まるで、水の中から世界を覗いているような感覚だった。


それでも俺は、目だけは手術台に釘付けだった。

メスの刃が皮膚を割る微かな音、消毒液の刺激臭、血管を露出させるときの張り詰めた空気。

どれも、俺の胸の奥を熱くし、そして冷たくもした。


――俺は本当に医者になれるのか?

この手で誰かを救えるのか?

そんな問いが、喉の奥でずっと燻っていた。


そのとき、大広間を揺らすような緊急サイレンが鳴り響いた。

胸が一瞬で跳ね上がり、俺は体をこわばらせた。


「コードブルー発生! 生徒全員、防護服を着用して第1治療室へ!」


空気がざわつき、皆が一斉に動き出す。

だが、足が重い。

嫌な予感が、背骨に沿ってゆっくりと這い上がってくる。


「エマ……コードブルーって、俺らまだ入学したばっかだぞ……?」


声が震えていた。

自分で驚くほど弱々しい声だった。


「説明はあと! 本当に危ない患者だから、急いで!」


エマの焦りが、俺の胸にさらに重くのしかかった。

防護服のファスナーを上げる手が震える。

息苦しさが喉の奥を締めつけ、飲み込むように唾を押し込んだ。


病院棟へ走る間、心臓は痛いほど激しく鳴り続けた。

不吉な予感が、予感のままでいてくれと祈った。

だが――世界は、俺の願いなんて聞いてくれなかった。



ストレッチャーが運ばれてきたとき、俺の視界は一度、白くぼやけた。

見間違いであってほしいと、心のどこかで願った。

だが、その顔を見た瞬間、膝が崩れそうになる。


「……エレナ?」


かすれた声が勝手に漏れた。

喉が焼けるように熱く、そして冷たくなった。


かつて孤児院で、俺に笑顔を向けてくれた少女。

俺が落ち込んだ日には「大丈夫だよ」と小さな声で背中を押してくれた少女。

朝、眠そうな目で俺の袖を握り、「行ってらっしゃい」と囁いてくれた少女。


そのエレナが、蒼白な顔で横たわり、浅い呼吸を繰り返していた。


何かが、胸の奥で大きく砕けた。

痛い。

いや、痛いなんてもんじゃない。

息ができない。


過去を悔やむ暇などないはずなのに、

なぜか俺の脳裏には「あの日」が蘇り続けた。

2年前、里親に引き取られたエレナを送り出した朝。

俺は言った。


――“待ってて。絶対、医者になるから”


あの約束が、胸を締め付け、皮肉のように響いた。



手術室の扉が開く。

無影灯が白い光を放ち、エレナの小さな体を容赦なく照らす。

青白い肌が、その光でさらに透明に見えた。


「新入生は補助に回れ! 止血、モニタリング、器具の準備! 時間がない!」


先輩医師の声は鋭く、冷徹だった。

しかしそれは正しい。

感情で動いてはいけない。

わかっているのに、手袋の中で指が震えて止まらない。


メスが皮膚を割る瞬間、俺の心臓も同じように裂けるような痛みを感じた。

赤い血が滲む。

吸引器が血液を吸い上げる鋭い音が、まるで俺の胸を抉るようだった。


「キサラギ、ガーゼ!」


「は、はいっ!」


声が裏返る。

ガーゼを渡す手が震えているのが、自分でも分かった。

情けなさが、じわりと腹の底に広がる。


もっと冷静でいたかった。

もっと強くなりたかった。

こんなときに震えていて、何が医者だ。

何が「医者になるから待ってて」だ。


エレナの心臓が弱々しく痙攣し、モニターの数字が容赦なく落ちていく。


「心拍低下! アドレナリン! ……キサラギ、モニタリング続けろ!」


名前を呼ばれた瞬間、心臓がぐっと掴まれた。

モニターの数字が落ちていくたび、胸の奥の何かも一緒に沈んでいく。

手の汗で管が滑りそうになる。

呼吸が浅い。

喉が苦しい。


――頼む。

――死なないでくれ。


だが祈りは、ただ自分の内側で空しく反響するばかりだった。



数時間後。

結果は残酷だった。


エレナの意識は戻らず、心電図は静かな横一線を描いていた。

あまりにも静かで、あまりにも冷たい現実がそこにあった。


病室の空気は沈みきり、時計の針の音がやけに耳についた。

その「コツ、コツ」という音が、まるで俺の無力さを刻むようだった。


ベッド脇に座り、エレナの冷たい指を握る。

その温度に、思わず全身が震えた。


「……エレナ」


名前を呼ぶだけで、喉が潰れそうだった。


何度も後悔した。

あのとき、もっと頻繁に手紙を書いていたら。

もっと早く医者になれていたら。

もっと――。


「……ごめん……俺、何もできなかった」


涙がぽたりと落ちた。

シーツに黒い染みを作り、それがじわりと広がっていく。


「死ぬなよ……」


声が震え、言葉が途切れそうになる。


「死ぬなって……頼むから……!」


その叫びは、病室の壁に吸い込まれ、どこにも届かない。

返事はない。

それでも俺はエレナの手を放せなかった。


胸の奥で、何かがゆっくりと崩れていく音がした。

自分の弱さ、みじめさ、無力さ。

全部が重くのしかかってくる。


でも、その重さを抱えてでも――

いや、その重さを抱えたままじゃないと、前に進めないのだと思った。


俺はエレナの手を握りしめたまま、静かに目を閉じた。


――俺は医者になる。

誰よりも強く、誰よりも確実に、命をつなぐ医者に。


もう二度と、大切なものを失わないために。

そして、二度と、自分に嘘をつかないために。


胸の奥で、痛みと共に、固い決意が形を成していった。



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