第8話 試練の幕開け
翌日の授業は、上級生による模擬手術の見学から始まった。
たった一日しか経っていないはずなのに、俺の胸には、妙な焦りのようなざわつきがずっと渦巻いていた。
周りの新入生たちは期待や緊張でそわそわしているが、俺は彼らの声が遠く聞こえていた。
まるで、水の中から世界を覗いているような感覚だった。
それでも俺は、目だけは手術台に釘付けだった。
メスの刃が皮膚を割る微かな音、消毒液の刺激臭、血管を露出させるときの張り詰めた空気。
どれも、俺の胸の奥を熱くし、そして冷たくもした。
――俺は本当に医者になれるのか?
この手で誰かを救えるのか?
そんな問いが、喉の奥でずっと燻っていた。
そのとき、大広間を揺らすような緊急サイレンが鳴り響いた。
胸が一瞬で跳ね上がり、俺は体をこわばらせた。
「コードブルー発生! 生徒全員、防護服を着用して第1治療室へ!」
空気がざわつき、皆が一斉に動き出す。
だが、足が重い。
嫌な予感が、背骨に沿ってゆっくりと這い上がってくる。
「エマ……コードブルーって、俺らまだ入学したばっかだぞ……?」
声が震えていた。
自分で驚くほど弱々しい声だった。
「説明はあと! 本当に危ない患者だから、急いで!」
エマの焦りが、俺の胸にさらに重くのしかかった。
防護服のファスナーを上げる手が震える。
息苦しさが喉の奥を締めつけ、飲み込むように唾を押し込んだ。
病院棟へ走る間、心臓は痛いほど激しく鳴り続けた。
不吉な予感が、予感のままでいてくれと祈った。
だが――世界は、俺の願いなんて聞いてくれなかった。
◆
ストレッチャーが運ばれてきたとき、俺の視界は一度、白くぼやけた。
見間違いであってほしいと、心のどこかで願った。
だが、その顔を見た瞬間、膝が崩れそうになる。
「……エレナ?」
かすれた声が勝手に漏れた。
喉が焼けるように熱く、そして冷たくなった。
かつて孤児院で、俺に笑顔を向けてくれた少女。
俺が落ち込んだ日には「大丈夫だよ」と小さな声で背中を押してくれた少女。
朝、眠そうな目で俺の袖を握り、「行ってらっしゃい」と囁いてくれた少女。
そのエレナが、蒼白な顔で横たわり、浅い呼吸を繰り返していた。
何かが、胸の奥で大きく砕けた。
痛い。
いや、痛いなんてもんじゃない。
息ができない。
過去を悔やむ暇などないはずなのに、
なぜか俺の脳裏には「あの日」が蘇り続けた。
2年前、里親に引き取られたエレナを送り出した朝。
俺は言った。
――“待ってて。絶対、医者になるから”
あの約束が、胸を締め付け、皮肉のように響いた。
◆
手術室の扉が開く。
無影灯が白い光を放ち、エレナの小さな体を容赦なく照らす。
青白い肌が、その光でさらに透明に見えた。
「新入生は補助に回れ! 止血、モニタリング、器具の準備! 時間がない!」
先輩医師の声は鋭く、冷徹だった。
しかしそれは正しい。
感情で動いてはいけない。
わかっているのに、手袋の中で指が震えて止まらない。
メスが皮膚を割る瞬間、俺の心臓も同じように裂けるような痛みを感じた。
赤い血が滲む。
吸引器が血液を吸い上げる鋭い音が、まるで俺の胸を抉るようだった。
「キサラギ、ガーゼ!」
「は、はいっ!」
声が裏返る。
ガーゼを渡す手が震えているのが、自分でも分かった。
情けなさが、じわりと腹の底に広がる。
もっと冷静でいたかった。
もっと強くなりたかった。
こんなときに震えていて、何が医者だ。
何が「医者になるから待ってて」だ。
エレナの心臓が弱々しく痙攣し、モニターの数字が容赦なく落ちていく。
「心拍低下! アドレナリン! ……キサラギ、モニタリング続けろ!」
名前を呼ばれた瞬間、心臓がぐっと掴まれた。
モニターの数字が落ちていくたび、胸の奥の何かも一緒に沈んでいく。
手の汗で管が滑りそうになる。
呼吸が浅い。
喉が苦しい。
――頼む。
――死なないでくれ。
だが祈りは、ただ自分の内側で空しく反響するばかりだった。
◆
数時間後。
結果は残酷だった。
エレナの意識は戻らず、心電図は静かな横一線を描いていた。
あまりにも静かで、あまりにも冷たい現実がそこにあった。
病室の空気は沈みきり、時計の針の音がやけに耳についた。
その「コツ、コツ」という音が、まるで俺の無力さを刻むようだった。
ベッド脇に座り、エレナの冷たい指を握る。
その温度に、思わず全身が震えた。
「……エレナ」
名前を呼ぶだけで、喉が潰れそうだった。
何度も後悔した。
あのとき、もっと頻繁に手紙を書いていたら。
もっと早く医者になれていたら。
もっと――。
「……ごめん……俺、何もできなかった」
涙がぽたりと落ちた。
シーツに黒い染みを作り、それがじわりと広がっていく。
「死ぬなよ……」
声が震え、言葉が途切れそうになる。
「死ぬなって……頼むから……!」
その叫びは、病室の壁に吸い込まれ、どこにも届かない。
返事はない。
それでも俺はエレナの手を放せなかった。
胸の奥で、何かがゆっくりと崩れていく音がした。
自分の弱さ、みじめさ、無力さ。
全部が重くのしかかってくる。
でも、その重さを抱えてでも――
いや、その重さを抱えたままじゃないと、前に進めないのだと思った。
俺はエレナの手を握りしめたまま、静かに目を閉じた。
――俺は医者になる。
誰よりも強く、誰よりも確実に、命をつなぐ医者に。
もう二度と、大切なものを失わないために。
そして、二度と、自分に嘘をつかないために。
胸の奥で、痛みと共に、固い決意が形を成していった。




