第8話 初めての修羅場でも、俺は逃げない
翌日の授業は、上級生による模擬手術の見学から始まった。
手術見学室は冷たい無影灯の光に満たされ、ガラス越しに広がる手術台が新入生たちの視界を支配していた。
消毒液の鋭い匂いが空気を切り裂き、緊張した吐息が静かに重なる。まだ入学して一日しか経っていないのに、俺の胸の奥では、名前のつけられない焦りが絶えず渦を巻いていた。
周りの新入生たちは期待に目を輝かせ、興奮した小声で互いに言葉を交わしている。彼らの声は、俺には遠く、水の底から響くむせ返るような音にしか聞こえなかった。
それでも俺は、手術台から目を離せなかった。メスの刃が皮膚を滑らかに切り開く微かな金属音、開かれた傷口から立ち上る温かな血の匂い、医師たちの静かな指示が交わされる張り詰めた空気。
それらはすべて、俺の胸を熱く焦がし、同時に冷たく凍てつかせた。掌にじわりと汗が滲み、指先が細かく震える。この手で、本当に誰かの命を救える日が来るのだろうか。そんな問いが、喉の奥で燻り続け、言葉にならずに胸を締めつけた。
そのとき、突如として建物全体を震わせるような緊急サイレンが鳴り渡った。鋭い電子音が耳を貫き、心臓が喉元まで跳ね上がった。体が硬直し、息が詰まる。
「コードブルー発生! 全生徒、防護服着用の上、第1治療室へ急行!」
指導教官の声が響き渡り、周囲が一斉に動き出した。新入生たちが慌ててロッカーに殺到する中、俺の足だけが地面に縫い付けられたように重かった。背筋を冷たい予感が這い上がり、嫌な想像が頭を覆う。それを振り払おうと首を振ったが、ざわめきは増すばかりだった。
隣で防護服を急いで着込むエマが、俺の腕を強く掴んだ。彼女の瞳には、いつもの穏やかさはなく、切迫した光が宿っていた。
「説明は後よ! 本当に危ない患者さんなの……急いで!」
エマの声は震え、その焦りが俺の胸に重くのしかかった。防護服のファスナーを上げる手が震え、プラスチックの擦れる音が耳に刺さる。
息苦しさが喉を締めつけ、唾を飲み込むのも辛かった。病院棟へと駆け出す廊下は果てしなく長く、心臓が痛いほど激しく鳴り続けていた。不吉な予感が、ただの予感であってくれと、必死に祈った。だが、世界はそんな小さな願いを、容赦なく踏みにじった。
第1治療室に到着した瞬間、ストレッチャーが勢いよく運び込まれてきた。俺の視界が、一瞬、真っ白に染まった。見間違いであってほしい。心の底から、そう叫んだ。だが、ストレッチャーの上で横たわる少女の顔を認めた瞬間、膝が崩れ落ちそうになった。
「……エレナ?」
掠れた声が、喉から勝手に零れた。喉の奥が焼けるように熱くなり、同時に氷のように冷たくなった。
エレナ。孤児院で共に過ごした、かけがえのない少女。俺が暗い顔で部屋の隅にうずくまっていた日には、そっと寄り添い、「大丈夫だよ、ハヤトにぃに」と小さな手で背中を撫でてくれた。朝、眠そうな目をこすりながら俺の袖を握り、「行ってらっしゃい。今日もがんばってね」と微笑んで送り出してくれた。あの温かな笑顔が、今は蒼白く、浅く細い呼吸だけを繰り返す唇に凍りついていた。
胸の奥で、何かが音を立てて砕け散った。
痛みという言葉では足りない。息ができない。視界の端が歪み、涙が滲むのを必死に堪えた。過去を振り返る余裕などないはずなのに、脳裏に「あの日」の記憶が鮮やかに蘇った。
2年前、里親に引き取られるエレナを送り出した朝。彼女は泣きそうな顔で俺を見上げ、俺は無理に笑顔を作って言った。
「待っててくれ。絶対、医者になって、お前を幸せにするから」
その約束が、今、胸を鋭く抉り、血を流すような痛みを残した。
手術室の重い扉が開き、無影灯の冷酷な白い光がエレナの小さな体を容赦なく照らし出した。青白い肌が、その光の下で透き通り、まるでガラスのように儚く見えた。空気は消毒液と血の匂いで重く淀み、モニターの規則的なピッピッという音だけが、静寂を切り裂いていた。
「新入生は補助に回れ! 止血、モニタリング、器具準備! 時間がない!」
先輩医師の声は鋭く、感情を一切排したものだった。それは正しい。感情に流されては命を救えない。頭ではわかっていた。だが、手袋の中で指が震え、止まらない。掌に汗が滲み、ゴムが肌に張り付く感触が現実を突きつけた。
メスが皮膚を切り裂く瞬間、俺の心臓も同じリズムで引き裂かれた。鮮やかな赤い血が滲み出し、吸引器がそれを吸い上げる鋭い音が響く。その音が、俺の胸を抉り、魂を削るようだった。血の温かさがガーゼに染み、手に伝わる感触が、エレナの命の重さを教えてくれた。
「キサラギ、ガーゼ!」
「は、はい……!」
声が裏返り、自分でも情けなかった。ガーゼを渡す手が震え、恥ずかしさと無力感が腹の底に広がった。もっと冷静でいたかった。もっと強くなっていたかった。こんなときに震えているようでは、何が医者だ。何が約束だ。
エレナの心臓が弱々しく痙攣し、モニターの数字が容赦なく落ちていく。警告音が鳴り響き、部屋の空気がさらに重くなった。
「心拍低下! アドレナリン! キサラギ、モニタリングを続けろ!」
名前を呼ばれた瞬間、心臓が強く締め上げられた。モニターの波形が乱れ、数値が沈んでいくたび、胸の奥の大事なものが一緒に引きずり込まれていく。手の汗で管が滑りそうになり、呼吸が浅くなる。喉が苦しく、視界が狭まった。
頼む。エレナ、死なないでくれ。
祈りは、ただ自分の内側で空しく響くだけだった。それでも俺は、モニターから目を離せなかった。ここにいるエレナの命が、この数字に懸かっている。俺にできることは、これしかない。
手術は長く続き、医師たちの手は正確で無駄がなかった。だが、エレナの小さな体は、次第に反応を失っていった。汗と血の匂いが混じり、部屋を満たす。俺の額にも汗が流れ、目に入って滲みた。それを拭う余裕すらなかった。
数時間後、手術は終わった。だが、結果はあまりにも残酷だった。
エレナの意識は戻らず、心電図は静かな横一線を描いていた。あまりにも静かで、あまりにも冷たい現実が、そこにあった。
病室に移されたエレナのベッド脇に、俺は腰を下ろした。部屋の空気は重く沈みきり、壁の時計が刻むコツ、コツという音が、俺の心を一つ一つ刻みつけるようだった。カーテンの隙間から差し込む夕陽が、部屋を茜色に染め、エレナの顔に優しい影を落としていた。それなのに、彼女の頰は冷たく、息は感じられない。
そっとエレナの指を握った。その冷たさに、全身が震えた。まだ温もりがあるはずなのに、指先は氷のように凍てついていた。
「……エレナ」
名前を呼ぶだけで、喉が潰れそうになった。声が掠れ、言葉が続かない。
後悔が波のように押し寄せた。あのとき、もっと手紙を書いていれば。もっと会いに行っていれば。もっと早く医者になる努力をしていれば。もっと、彼女のそばにいられたら。
「……ごめん。俺、何もできなかった」
涙が頰を伝い、ぽたりとシーツに落ちた。染みがじわりと広がり、消えていく。
「死なないでくれ……エレナ」
声が震え、言葉が途切れた。
「死なないでくれって……頼むから……!」
叫びは病室の壁に吸い込まれ、どこにも届かなかった。返事はない。ただ、モニターの単調な音だけが続く。それでも俺は、エレナの手を離せなかった。握りしめていることで、わずかでも彼女と繋がっている気がした。
胸の奥で、何かが音を立てて崩れ落ちた。自分の無力さ、みじめさ、弱さ。それらが重くのしかかり、息をするのも辛かった。
だが、その痛みの底で、ふと光が差した。この痛みを抱えたままじゃないと、俺は本当の医者になれない。この涙を無駄にしたら、二度と誰かを本気で救おうとは思えなくなる。
俺はエレナの手を握りしめたまま、静かに目を閉じた。夕陽の温もりが頰に触れ、乾いた涙の跡を優しく撫でた。
俺は医者になる。
誰よりも強く、誰よりも優しく、命をつなぐ医者に。
もう二度と、大切な人を失わないために。そして、エレナとの約束を果たすために。この痛みを、俺の力に変えて。
胸の奥で、鋭い痛みと熱い涙が混じり合い、固い決意が燃え上がった。それは、静かに、しかし確実に、俺の心を照らす炎となった。
外の空は深い茜色に染まり、遠くの街並みが優しく輝いていた。俺はエレナの手を握ったまま、その光を見つめ続けた。痛みは消えない。でも、この痛みが俺を強くする。必ず、エレナの分まで生きて、誰かを救ってみせる。
その想いは、静かに、しかし力強く、俺の未来を照らし始めた。




