第75話 遠回しプロポーズ
夕方の病院実習が終わった頃には、冬の空気がすっかり冷え込んでいた。手袋越しでも指先が冷たくて、思わず息を吹きかける。実習先の建物から寮へ戻ると、暖房の効いた廊下がやけにまぶしく感じられた。
今日は、エレナとの週一のオンライン通話の“リスケ明け”。
昨日の夜は正直、落ち着かなくてほとんど眠れなかった。
──エレナは俺の気持ちに気づいてるんだろうか。
──いや、気づいていないようで気づいているようで……どっちだ?
そんな堂々巡りを何十回繰り返したことか。
寮の部屋に戻り、白衣を脱いで椅子にかけたところで、スマホが震えた。
【エレナ:そろそろ通話いい?】
たったこれだけの通知で、体温が一度上がった気がした。
「……落ち着け、俺。普通に返せばいいだけだろ」
深呼吸してから返信する。
【俺:もちろん。すぐつなぐ】
余計なことを書きそうになるので、言葉は短く区切った。
画面に映る自分の顔がひどく緊張しているのが分かって、思わず苦笑する。
通話ボタンを押すと、ワンコールで繋がり、エレナの髪の揺れる音まで聞こえそうな距離に、画面越しの彼女が現れた。
「……やっと顔見れた」
言った瞬間、しまったと思った。
そっけないつもりが、どう考えても気持ちがだだ漏れだ。
案の定、エレナが眉を寄せてくる。
「ちょっと、その第一声……普通に重くない?」
「……悪い。嬉しかったもんで」
「うざい、って言ったらどうする?」
その言い方が、半分照れたようにも見えるのがずるい。
俺の胸の奥で、何かが跳ねた。
「うざいって言われても……俺は嬉しいけどな」
「意味わかんないんだけど」
「俺もわからん。けど、エレナと話せたら嬉しい」
彼女が一瞬だけ言葉を失って、目をそらす。
その沈黙すら愛しく感じてしまう自分が、本当に面倒くさい。
「……昨日のクラス会、楽しかったか?」
「まあ、普通。それより……ハヤト、なんか怒ってた?」
「怒ってねぇよ。ただ……寂しかっただけ」
「…………は?」
エレナの手元が画面越しに止まった。
ペンを回していた指が固まったまま動かない。
「さ、寂しかった? 20歳の男が?」
「年齢関係ある?」
「あるでしょ普通。……あーもう、うざっ」
“うざっ”の声が、なぜかくすぐったい。
このまま流すつもりだったのに、ふと胸の奥の言葉があふれてしまった。
「エレナ」
「なに?」
「……例えば、だよ」
「うん?」
「もし俺が……24時間365日ずっとそばにいたら、どうする?」
言った瞬間、鼓動が跳ねて耳が熱くなった。
完全に“遠回しプロポーズ”だ。
言葉を戻そうとしても、もう遅い。
エレナの画面の向こうの空気が、一瞬で変わった。
「……は?」
「嫌か?」
「き……急になに言ってんの? 意味わかんない」
「いや、俺は……エレナがもし嫌じゃなかったら、ずっといてもいいかなって」
「……っ、バカ。普通にうざい」
返事はトゲだらけなのに、声は震えている。
──嫌がってはいない。
その微妙なニュアンスが、胸に温かく広がる。
「でも、ほんとは嫌じゃないだろ?」
「っ……言ってないし!」
「じゃあ、どうなん?」
「……っ、ハヤト、そういうのずるい……」
ゆっくりと視線を落としたエレナの頬が、薄く赤い。
画面越しでも分かるほどに。
俺は、彼女の呼吸が少し乱れたのを感じて、勢いのまま続けた。
「エレナ。俺さ……これからインターンも控えてるし、忙しくなるけど」
「うん……」
「それでも、エレナと話す時間は絶対作りたい」
「…………」
「わかってる。重いって言われるかもしれない。でも……離れたくない」
エレナが動揺でペンを落とした音が聞こえた。
「……っ、ハヤト……」
呼ばれた名前がやわらかくて、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
そのとき──
「ほぉ〜〜〜……なるほどねぇ〜〜?」
背後から突然声がして、俺は反射的に振り返った。
「テオ……っ!! お前、なんで俺の部屋にいんだよ!!!」
「ハヤトが『今日はエレナちゃんと通話だ……』ってニヤニヤして出ていったから、どうせ見ものがあると思って」
「最低か?」
「いやいやいや、むしろ感謝して? 俺、証人になってあげるから!」
その瞬間、スマホ越しのエレナも固まった。
「え……ちょ、ちょっと待って。聞いてたの!?」
「全部ね。24時間365日どうのこうのってあたり」
「うわぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
俺とエレナの絶叫が完全にハモった。
その後ろでガチャっとドアが開く。
「ちょっと何よ騒いで……って、はぁ!? またハヤトが恋愛暴走してるの!?」
エマだ。
よりによってこの二人に全部聞かれるとか、地獄か?
「暴走なんてしてねぇ!」
必死で否定すると、エマは手を腰に当てて深いため息をついた。
「ハヤト。あなたさぁ……四年生になるんでしょ? 仕事量も責任も段違いに増えるわよ?
なのに、よりによって“24時間365日そばにいたい”って……本気で言ってる?」
「……本気だけど」
「重すぎーー!!」
エマが頭を抱えるのと同時に、テオが手を叩きながら笑い転げる。
「ハヤトってさぁ、普段クールなのに、こういう時だけ暴走機関車みたいだよね!」
「テオ黙れ!」
「やだ〜〜〜!? 俺はこうなると思って来たんだから!!」
スマホの向こうで、エレナが顔を覆った。
「……もうやだ……恥ずかしすぎ……」
「エレナ、本当にごめん……! こいつらが勝手に……!」
「ハヤトの方が勝手に暴走してると思うけど?」
「エマ、頼むから黙ってくれ!!」
ぐちゃぐちゃになった空気の中で、エレナが小さく笑った。
肩が揺れて、柔らかい笑みが滲む。
「……ハヤト。さっきの言葉は、嬉しかったよ」
「……え?」
「でも、言い方考えて。真剣ならなおさら」
視線を向けられ、胸が熱くなる。
「……ごめん。でも、俺は本気」
「……知ってる」
エレナは照れたように目をそらした。
「……そんなにずっと一緒にいたいなら、努力してよ。
私が“うざい”って言えなくなるくらい」
その小さな挑発が、信じられないほど甘く響いた。
「……任せろ。絶対そうする」
後ろでテオとエマが「きゃーーーー!!」「何この青春!!」と騒ぐのも、もうどうでもよくなっていた。
画面の向こうのエレナが、かすかに笑ったまま言った。
「……じゃあ、ハヤト。まずは……来週も通話、ちゃんとしてね」
「当たり前だろ」
「遅刻したら……怒るから」
「絶対しない」
返事をした瞬間、エレナの耳まで赤くなって、通話画面がそっと閉じられた。
残された俺は、しばらく動けなかった。
胸の奥がじんわり熱くて、息の仕方すら忘れてしまうほどで。
「……ハヤト、マジで顔真っ赤。やば」
「テオ、お前は本当に……」
「はーいはーい。青春のジャマしてごめんなさ〜い?」
どこか嬉しそうな声に、エマが横から突っ込む。
「ほんとに4年生の自覚ある? 二人とも」
「ないかもしれん……」
そう言いながら、俺はスマホを胸元でそっと握りしめた。
──エレナに、“うざい”って言われなくなる日。
──その日がくるなら、どんな努力も惜しくない。
そう思えた自分が、少し誇らしかった。




