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倒れないでくれ! ――限界と選択を描く医療ヒューマンドラマ――  作者: 東雲 明
三年生編:ゴールデントリオの絆

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第72話 リスケの夜、胸の奥で鳴るもの

 夜になっても、外は一段と静かだった。

 窓を叩く冬風の音と、遠くで鳴る暖房のくぐもった唸り声だけが、寮の部屋に薄く響いている。


 エレナとの通話がリスケになってから、数時間。

 テオとエマの騒がしさで気を紛らわせたはずなのに、部屋にひとり戻ると、胸の中にぽつんと空いた穴がまた顔を出した。


 机の上に置いたイヤホンを手に取り、指先で何度も触れる。

 通話の前に準備して、結局使われなかったままのイヤホン。

 何でもないはずなのに、見ているだけで胸がきゅっとなるのが、自分でも嫌になる。


「……俺、こんなに弱かったか?」


 思わず天井に問いかけるように独り言が漏れる。

 去年までの俺だったら、オンライン通話が一回延びただけで気持ちが浮き沈みするなんて考えられなかった。

 恋に振り回されるなんて、自分には縁のない世界だと思っていた。


 だけど――エレナに出会ってから、俺は簡単にそういう“弱さ”を抱えるようになった。


 弱さって言っていいのか、自分でもまだよくわからない。

 ただ、胸が苦しくなるほど誰かを想う気持ちなんて、今まで持ったことがなかった。


 スマホの画面を開くと、エレナとのメッセージがそこにある。

 クラス会に参加する前に届いた短い文章。

 たったの数行なのに、何回も読み返してしまう。


本当にごめんね、ハヤト。


 この一言が、どうしようもなく愛しい。

 謝らなくていいのに。

 むしろ、そんなふうに俺の気持ちを気遣ってくれることに胸があたたかくなった。


「……俺はさ、ほんとにお前が好きなんだよ」


 言葉にしてみると、途端に胸が熱くなる。

 気恥ずかしくて、誰にも聞かれたくない言葉。

 誰に聞かれることもない部屋で、小さな声で呟く。


 恋なんて、もっとふわっとした感情だと思っていた。

 甘いとか、楽しいとか、そういう軽い気持ちだと思っていた。


 でも実際は、こんなふうに心がざわつく。

 会いたくて、声が聞きたくて、ちょっとした言葉で落ち込んだり、救われたりする。

 苦しいのに、幸せだ。

 不安なのに、前向きになれる。


「……面倒くさい感情だな」


 思わず笑ってしまう。

 けれどその面倒くささを、俺は手放したくなかった。


 ふと、机の上のノートが目に入る。

 そこには、俺がエレナと話す時の“メモ”がある。

 話したいこと、聞きたいこと、心配していること。

 忘れないように書いた小さな文字が並んでいる。


 ページをめくると、色々な書き込みが目に飛び込んできた。


「最近、睡眠ちゃんと取れてる?」

「研究の進み具合どう?」

「エマに言われた薬理の課題、エレナならどう解くんだろ」

「新しい料理作れるようになったって言ってたな」

「こないだの笑顔、忘れられない」


 最後の一行だけ、少しだけ文字が大きかった。

 書いた時の俺がどれだけ動揺していたか、まざまざと思い出す。


 ページの端には、こっそり小さく――


「好きだ」


 と書かれていた。

 自分でも、驚きだ。

 文字にするなんて。


 指でその文字をなぞる。

 ノートの紙越しでも、心臓が跳ねるのがわかる。


(こんなんじゃ、エレナに会った時にバレるかもしれないな)


 そんなことを考えて、頬が熱くなる。

 でも、嫌じゃない。

 むしろ、バレてもいいんじゃないかって少し思う。


 だけど――言葉にする勇気がないのも事実だった。


 恋愛なんて、うまくいく保証なんてどこにもない。

 エレナが俺の気持ちを受け止めてくれるかなんて、わからない。


 わからないことが怖い。

 でも、その“わからない先”に進んでみたいと思うくらいには、彼女のことが好きなんだ。


 スマホの画面を見つめながら、ふと指が動く。

 エレナのアイコンを押して、通話アプリを開く。

 表示された「オンライン中」の文字。

 まだクラス会にいるのかもしれない。


(……声、聞きたいな)


 でも我慢する。

 わがままを言って困らせたくない。


 代わりに、短いメッセージを打った。


クラス会、楽しんで。

終わったら、少しだけでいいから……無事だって知らせてくれたら嬉しい。


 送信した瞬間、心臓が跳ねた。

 こんなこと送るなんて、いつもの俺らしくない。


 だけど、言わずにはいられなかった。


 エレナから返信が来るまでの時間が、長く感じる。

 指先が落ち着かなくて、机の上をとんとん叩いてしまう。


「……はぁ」


 自分でも呆れるほど、彼女のことでいっぱいだ。


(会いたいな)


 その一言が、胸の奥で静かに鳴り続けている。

 エレナの笑顔が浮かぶ。

 優しい声が耳の奥に蘇る。


 こんなにも誰かを想うのは、人生で初めてだ。


 しばらくして、スマホが震えた。

 胸が電気みたいに弾け、慌てて画面を見る。


ハヤト、ありがとう。

クラス会、思ったより長引いちゃって……

終わったら必ず連絡するね。

心配してくれて嬉しいよ。


 その一文を読んだだけで、胸が一瞬で熱くなる。


 好きだ――

 そう思う気持ちが、堰を切ったように溢れた。


「……ほんとに、好きだよ」


 彼女はまだ気づいていない。

 この言葉をいつかきちんと届けられる日が来るのかも、まだわからない。


 でも、今日より少しだけ前に進めた気がした。


 リスケされた通話。

 それは一見、がっかりする出来事だったはずなのに――

 そのおかげで、自分の想いの深さに気づく時間をもらえた。


(次に話せたら……少しだけ、本音を伝えてみようかな)


 胸の中で灯った小さな決意が、冬の夜をほんのり温かくしてくれた。

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