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倒れないでくれ! ――限界と選択を描く医療ヒューマンドラマ――  作者: 東雲 明
三年生編:ゴールデントリオの絆

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第70話 あの冗談が本当になったら

 「もし、あの冗談が本当だったら」


 テオのやつ……あの時は軽く流したつもりだった。

 けれど、熱がすっかり下がって、部屋も静かになってしまうと、どうしても思い出す。


「ハヤトってさ、エレナさんと結婚する未来しか見えないよな〜!」


 あいつはケラケラ笑って、エマに怒鳴られていたけれど……。

 俺はその横で、何も言えずにいた。

 いや、言えなかった、という方が近い。


 だって——そんなこと、考えたことがなかったわけじゃないから。


 枕に顔を埋めたまま、俺は深いため息をついた。

 冗談に決まってる。テオの言うことなんて、まるっと本気にする方がどうかしてる。

 それは分かっている。分かっているんだけれど、消えてくれないんだ、この胸のざわつきが。


 エレナと、結婚。


 その二文字が頭の中をぐるぐる回る。

 まずい。これ以上考えると、絶対にろくなことにならない。


 けれど、考えてしまう。


 もし結婚したらどうなる?

 俺たちはどう暮らす?

 エレナは……俺をどう呼ぶんだろう。


 そんなことばかり浮かんでくる。


 喉が少しだけ渇いた。

 ベッドから起きて、ゆっくりと窓際に寄る。

 学院の医療棟から見える街は、まだインフルエンザ騒ぎの影響が色濃く残っていた。

 救急車のサイレンが遠くで鳴り、医療隊の荷馬車が行き交う。

 混乱の中、俺たちは必死で動いてきた。

 テオもエマも、こんな状況で立派に踏ん張った。

 だからこそ、みんな笑えるようになった今、妙に心の隙間が広がってしまうのかもしれない。


 ……エレナ。


 俺は窓枠に手を置き、ぼんやり外を眺めた。


 もし——もしも、彼女の隣に立ち続けられたら。

 笑い合って、支え合って……。

 そんな未来があったら、俺は。


「いやいや、落ち着け俺……!」


 思わず口に出してしまい、慌てて口を押さえた。

 これじゃ本当にテオの冗談通りだ。

 暖まった顔を冷ますように、深呼吸を一度。


 その時だった。


 机の上に置いてあった小さなカードが目に入った。

 エレナが見舞いに来てくれた時、そっと置いていったものだ。


『早く元気になってください。

 倒れたら、私が困ります。

      ——エレナ』


 字は丁寧で、気遣いがにじんでいて。それだけで胸が熱くなる。


 ……困ります、か。


 「好き」とか「大事」とか、そんな直接的な言葉は一つも書いていない。

 だけど、エレナの「困る」は、きっと本心だ。

 俺が無茶すれば、あの人は本気で怒る。

 でも、心配もする。

 そういう関係なのは、もうずっと変わらない。


 カードを指先でなぞりながら、また息が漏れた。


「……もし、その先があったら……なんてな」


 想像してみる。


 エレナと肩を並べて働いている自分。

 休日にどこかへ行く自分。

 からかうテオと、それを叱るエマ。

 その真ん中で、笑っている彼女。


 ——ああ、駄目だ。

 本気で胸が温かくなってきた。


 俺はカードをそっと戻し、ベッドに倒れ込んだ。

 枕に顔を埋めると、抑えていた熱が一気に上がるみたいに頬が熱くなった。


「……結婚、か」


 言ってみた瞬間、心臓が跳ね上がった。

 痛いくらいに。

 こんなに簡単に揺さぶられるなんて、俺はどれだけあの人のことを——。


 いや、考えるなと言っても無理だ。

 もう頭の中は、エレナのことでいっぱいだった。


 俺が倒れた時、必死に病室に来ようとしたエレナの顔。

 あれを思い出すだけで胸が締め付けられる。


 ……守りたいよ。

 あの人を。


 それが、恋とか愛とか、そういう言葉になるのかどうかは、まだ自分でも分からない。

 ただ、それでも——。


「もし未来があるなら……」


 呟いた声は、枕に吸い込まれて消えた。


 いつか、テオの冗談が冗談じゃなくなる日が来るのかもしれない。

 そんな未来を、本気で望んでしまった自分に気づいて、俺はまた顔を覆った。


「……どうするんだよ、俺」


 情けなく笑うと、胸がまた温かくなった。


 インフルエンザ騒ぎが落ち着いたら、また忙しい日々に戻るだろう。

 テオもエマも前みたいに騒がしくなるだろうし、エレナにも怒鳴られるだろう。


 それでも、この気持ちはたぶん消えない。


 冗談でもいい。

 あいつらにからかわれてもいい。


 エレナを大切にしたい。

 その気持ちだけは、本物なんだから。


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