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倒れないでくれ! ――限界と選択を描く医療ヒューマンドラマ――  作者: 東雲 明
プロローグ:はじまりの物語

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第7話 絶望より先に、ツッコミが出る日

白亜の校舎に囲まれたルミエールアカデミーの大広間は、新入生たちの熱気で空気がむっと蒸し暑く、まるでサウナにでも入ったような息苦しさだった。春の陽光がステンドグラスを透かし、床に虹色の帯を落としているのに、俺の心の中だけはどんよりとした曇り空が広がっていた。医療専門学校とは思えない華やかな内装が、逆に俺の緊張を煽り立てる。巨大スクリーンでは入学式のハイライトが流れ、周囲の興奮が波のように押し寄せてくるのに、俺だけがその波に飲み込まれず、ぽつんと浮かんでいるような気分だった。


上級生の明るい声が響いた。「はーい! 新入生の皆さん、寮の割り振りはこっちのタブレットで確認してくださーい!」


その一言で、大広間のざわめきが一気に膨れ上がった。新品のタブレットが机にずらりと並び、画面には整然とした表が表示されている。名前を入力すれば、自動で寮が出てくる仕組みらしい。便利そうで何より、と思った瞬間、俺の胸に暗い影が落ちた。


俺は電子機器に触れると、なぜか必ず壊す。孤児院時代からそれは変わらず、リモコンを握っただけでチャンネルが勝手に変わり、テレビの電源ボタンを押せば即座にブラックアウト。しまいには「ハヤトに機械を渡すな」という鉄則ができあがっていた。人より明らかに高いこの破壊確率が、今ここで俺を追い詰めている。最新型のタブレットを触れば、きっと指が触れた瞬間に画面が悲鳴を上げて真っ暗になり、周囲から「こいつヤバい……」という痛い視線が集中するだろう。そんな最悪の想像が頭を駆け巡り、俺はタブレットの前で完全に固まってしまった。


「ハヤト、なんでそんな顔して棒立ちになってるのよ。まるで死刑台に上がる囚人みたい」


エマの声が横から飛んできた。彼女がひょいっと覗き込み、さらりとタブレットに指を滑らせる。画面が優雅に反応し、メニューが蝶のように軽やかに舞い変わる。あの指先の動きは自然で、機械が彼女の手の延長であるかのように従順だ。


俺には信じられなかった。絶対に、俺が同じことをすれば、画面が凍りついた湖のように黒く沈むはずだ。指が触れた瞬間、内部の回路が「もう無理!」と叫んで機能を放棄するような、そんな確信がある。


「エマ……これ、本当に壊れないのか?」


「壊れないわよ。あんたじゃあるまいし」


その一言に、俺は苦笑いを浮かべるしかなかった。


「なんで俺だけ特別仕様なんだよ……」


「自覚あるでしょ? あんたの指は、機械にとって天敵なのよ」


ある。本当に、自覚しすぎているくらいだ。この体質がなければ、もっと普通に生きられたのにと思うこともある。でも、今は受け入れるしかない。ため息をつきながらタブレットと睨めっこを続けていると、突然雷のような大声が割り込んだ。


「どれどれ! こういうのは俺がやってやるぜ!!」


現れたのはテオだった。問題児という言葉が辞書に載るなら、必ず彼の写真が添えられるレベルの奴だ。俺と同じく機械を破壊する天才で、もし「機械に触らせてはいけない人間ランキング」が存在したら、俺とテオが金メダルと銀メダルを独占し、銅メダル以下は遥か彼方だろう。


テオはまず、タブレットを手に取り、画面に勢いよく息を吹きかけた。まるで曇った窓ガラスを拭う巨人のように、唾液の飛沫が微かに飛び散るほどの威力で。


「何やってんのよテオ!! 画面がベタベタじゃない!」


エマの声が鋭く飛んだ。


「メガネと同じ感覚だろ!? 曇ったら息吹きかけて拭くのが基本だぜ!」


「タブレットはメガネじゃないの!! それに、あんたメガネかけてないでしょ!!」


周囲の新入生たちがざわつき始め、くすくすと笑いが漏れ始めた。視線が集まる中、テオはまったく動じない。むしろ得意げだ。


「よし、次はスワイプ! これがキモだ!」


そう叫んで、タブレット本体を左右に激しく振った。まるでマラカスを振り回す熱狂的なミュージシャンのように、勢いが止まらない。


「違う!! スワイプは本体を振るんじゃないの!!」


「だって画面に“スワイプ”って書いてあるだろ! 本体を振るんだろ!?」


「そんなことしたら、まるで歯磨き粉を振り出して泡立てるみたいじゃない!!」


テオの理解があまりに独創的で、俺は呆れを通り越して腹を抱えそうになった。でも、次の行動で笑いは一瞬で凍りついた。


「なるほど、じゃあ画面を押すんだな? こうだな?」


テオの指が全力で画面に押し込まれる。まるで生地をこねるパン職人のように、ぐりぐりと力任せだ。乾いた音が響き、画面が微かに波打った気がした。


「テオッ!! それ、押しつぶすような音よ!!」


「いやあ、タブレットって意外と柔らかいな? まるでマシュマロみたいだぜ」


「柔らかくない!! それは限度を超えてる!! あんたの指は油圧プレス並みよ!!」


エマが慌ててタブレットを奪い取り、端を覗き込んで顔を真っ青にした。


「……ヒビが入ってる……細かい蜘蛛の巣みたいに……」


「いや、これは“傷加工デザイン”じゃ? ヴィンテージ風でカッコいいだろ?」


「そんな加工があるわけないでしょ!! あんたのセンスは原始人レベルよ!!」


エマの怒りが大広間に雷鳴のように響き渡り、周囲の新入生たちが完全に引いた表情を浮かべている。係の上級生の目は虚ろで、魂が天国に旅立ったようだ。くすくすと笑いが広がり始め、俺たちの周りはまるで小さなコメディ劇場の観客席と化していた。


テオはまだ満足せず、次の標的を探し始めた。近くに置かれた上級生のスマホに手を伸ばす。


「お、これスマホか? こっちで寮のPDF見れるらしいからよ! 俺が優しく扱ってやるぜ!」


「やめろテオ、それは借り物だ――」


言葉が終わる前に、乾いた音がした。テオの握力がスマホを軽く包み込んだ瞬間、ケースが悲鳴を上げてひび割れた。まるでクルミを割るような音だ。


「……握っただけなんだが……」


「どんな握力してるのよテオ!! あんたの“優しく”は、ヒグマが子熊を抱くレベルよ!!」


「え、マジ? 俺、かなりセーブしたつもりだったけどなあ」


エマの悲鳴が上がり、上級生の表情がさらに絶望の底に沈んだ。周囲の笑いが爆発し、俺はもう腹が痛くなるほど笑いを堪えるのに必死だった。この二人に巻き込まれると、いつもこうなる。


その後、ようやくエマが「もう私が全部やるからあんたたちは指一本触らないで」と宣言した。正しい判断だ。彼女の手にタブレットが移った瞬間、俺の肩の力が抜け、テオも「了解!」と敬礼した。


エマは検索窓に俺の名前を入力していく。「えっと……『ハヤト・キサラギ』は……」


画面に色付きのセルが浮かび上がった。


《獅子寮》


胸の奥がほっと温かくなった。知らず知らずのうちに息を止めていたらしい。大きく息を吐き出し、緊張が溶けていくのを感じた。


「よかった……」


「当たり前よ。同じ学部の同級生は基本同じ寮になるんだから。心配しすぎ」


エマが俺の肩を軽く叩いた。その感触が心地よく、安心を運んでくる。


テオも覗き込んで、満面の笑みを浮かべた。


「俺も獅子寮だったぜ! 三人で同じ寮だな! やったー! これで毎日壊し放題……じゃなくて、楽しく過ごせるな!」


その明るさが、俺の心をさらに軽くした。こんな大騒ぎの後でも、テオの笑顔は太陽のように眩しい。


その時、視線を感じて振り向いた。大広間の奥、蛇寮のエリアに、一人だけ異様な空気を纏った男が立っていた。こちらをじっと見つめている。


マルクス。


入学前から噂の絶えない上級生だ。問題を起こすことで有名で、周囲が自然と距離を置く存在。その目は笑っていないのに、どこか楽しげに細められている。俺の寮を確認した画面を見た瞬間、口角がわずかに上がった。あれは、獲物を見つけた猫のような笑みだった。


エマが小声で、しかしはっきりと言った。


「……あの人、最悪だから。関わらないようにね。巻き込まれたら、私たちのコメディがホラーに変わるわよ」


「……気をつける」


そう答えたが、胸のざわつきは収まらない。喉元に嫌な予感が張り付き、離れようとしない。マルクスの視線が、俺の背中を冷たく撫でるように感じられた。


すると、次の波が押し寄せてきた。


「なあハヤト、“LINE交換しよ”って言われたんだが……LINEってなんだ? なんか伝書鳩の現代版か?」


テオの質問に、俺は首を振った。


「知らん。噂では聞いたけど……なんか、紙飛行機で手紙送るみたいなもんらしいぞ」


横でエマがスマホを操作しながらため息をついた。


「連絡用のアプリよ。メッセージを送ったり、グループを作ったり、スタンプを押したり……ほら、こんなの」


画面を見せられたが、俺の頭は一瞬でパンクした。アイコンが並び、通知が次々と現れる様子が、まるで蜂の巣を突いたような大混乱だ。


「“既読”ってなんだ……?」


「読んだらつくマークよ。スルーすると喧嘩の元になる」


「読んだだけで喧嘩……? なんて繊細な文化だ……まるでガラスの心を持った貴族社会だ……怖い……」


さらにテオが口を挟んだ。


「俺、さっき“ツイッターで今日の騒ぎバズりそう”って言われたぜ!」


「虫か何かか? ハエでも湧いたってことか?」


「違うわよ!! あんたたち本当に現代の化石ね!!」


エマが全力でツッコむ。その表情があまりに本気で、俺とテオは顔を見合わせて吹き出した。


「“バズる”っていうのは、動画や文章が一気に拡散されて、知らない人にも広がるって意味よ!」


「俺たちの大騒ぎが……拡散……?」


「ねえハヤト、あの様子が全校に広まるかもしれないのよ。タイトルは『新入生タブレット破壊事件』とかで、永遠にネタにされるわ」


「やめてくれ……それはまるで悪夢のウイルスだ……俺の人生終わってしまう……」


知らない単語が、次々と俺を襲ってくる。


LINE。


ツイッター。


バズる。


既読。


これらは医療の専門用語より遥かに難解で、現代社会の壁のように高くそびえている気がした。俺とテオはまるで原始人がスマホを見たような顔で固まっている。


「エマ……俺、現代社会に適応できる気がしない……」


「大丈夫よ。あんたたちは医療の勉強と現場ができれば、生きていけるわ。SNSは……まあ、俺が守ってあげるから」


「死ぬ条件のハードルが高すぎるだろ。それに守ってくれるって、まるで保育士みたいだな」


ふとまた視線を感じ、マルクスの方を見た。彼は俺たちの混乱を、まるで最高の喜劇を観るようにじっと眺めていた。胸が少し冷え、背筋に寒気が走る。でも、どこかで「こいつ、俺たちのドタバタを楽しんでるな」と確信した。


けれど、逃げても何も変わらない。明日から本格的な授業が始まる。どれだけ嫌味を言われようが、仕掛けられようが、俺は負けない。この学校で、ちゃんとやっていくと決めたんだ。テオとエマがいれば、笑いながら乗り越えられる。


エマがスマホをしまい、肩を回した。


「さ、寮に荷物運びに行きましょう。ハヤトとテオは機械からは一生離れてなさい。触ったら即座に破壊神が降臨するんだから」


「その言い方……俺たち、そんなに信用ないのか?」


「ある意味、誰より信用してるわよ。“壊す”という一点でね。世界一の信頼度よ」


「おいエマ、酷すぎるだろ」


「事実でしょ? あんたたちの指は、国家機密を破壊できるレベルなんだから」


テオが勢いよく立ち上がった。


「よし! まずはLINEだ! 俺、知らんけど、一緒に覚えようぜ! 壊れたらまた笑えるしな!」


「テオに教わるのは絶対に嫌だ。壊れるどころか、地球が終わるレベルだろ」


「断言かよ!? 俺、そんなにヤバいか!?」


エマの辛辣な言葉に、俺とテオは腹を抱えて笑った。この二人のやり取りが、騒ぎの後の空気を最高に和らげてくれる。笑いが止まらなくて、涙まで出てきた。


この二人となら、きっと大丈夫だ。SNSの壁も、寮生活の不安も、そしてマルクスが引き起こすかもしれない面倒事も、笑いながら乗り越えられる。そんな確信が、胸の奥に熱く灯った。


俺たち三人は、獅子寮へと歩き出した。新しい生活の一歩を、腹を抱えるほどの笑いを交えながら、しっかりと踏みしめていった。春の陽光が背中を押し、未来への道を照らしているようだった。きっと、この先も笑いが絶えない日々が待っている。

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― 新着の感想 ―
ひとまずここまで読ませていただきました。 プロローグですでにたくさんの魅力的なキャラクターが出てきて、わくわくしてます! ブクマさせていただきました。続き、ゆっくり読ませていただきます〜!
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