第66話 テオ&エマの初実践〜緊張編〜
ルミエールアカデミーの構内は、もはや学園ではなかった。
白衣を着た学生と教員が走り回り、臨時の搬送路が作られ、普段は静かな中庭に医療テントが張られている。
インフルエンザの爆発的流行で、王都の医療機関はあっという間にパンクし、その余波が学園に押し寄せたのだ。
そんな混乱のただ中で、テオ・アルトとエマ・リンデンは――
初めて“現場”に立たされていた。
◆
「テオ、体温記録シートは? 搬送者はあと五名追加になるわ。急いで!」
エマの声が医療テントの中で響く。
その顔は緊張でこわばっているが、目は鋭く集中している。
薬理学のトップである彼女でも、実際の現場に立つのは今日が初めてだった。
「えっ、ええっと……これと、これと……あれ、ペンがない!」
「落ち着いて。そんなので動揺してる場合じゃないの。はい、予備。」
「ありがと……!」
テオは震える手で受け取る。
いつもならすぐふざける彼も、今日はそんな余裕はない。
“王国の医療の一端を担う”――その重さを、初めて肌で感じていた。
学園の運動場には患者の列が続いている。
咳、呼吸苦、発熱……。
特に高齢者と子どもが多く、症状の重い者はすぐに保健棟へ搬送される。
テオは額の汗を拭いながら、次々に患者の体温と症状を聞き取り、簡易カルテを記入していく。
周りの空気は重い。
焦りと不安が広がり、誰もが“間違いが許されない”という空気にのまれていた。
◆
一方のエマは、薬剤テントに籠もり、教員たちと必死に薬を調合していた。
処方箋が追いつかない。
薬の在庫は減り続ける。
重症者には特別な配合が必要で、エマの知識が頼りにされている。
「エマ、抗ウイルス薬のグラム数を確認して。急ぎで三人分!」
「了解です。……先生、ここの濃度、もう少し下げないと副作用が出る可能性があります。高齢者への投与ですよね?」
「さすがだな。じゃあ調整を任せる。君ならできる。」
そう言われても、胸は張り裂けそうだった。
失敗すれば、誰かが危険な状態に陥る。
“教科書の中の薬”が“人の命を守る薬”へ変わる瞬間を、エマは今、目の前で実感していた。
手がかすかに震える。
だが、それを止めようと深呼吸し、慎重に、丁寧に、けれど急いで手を動かす。
(……ハヤト、あなたならどうした?)
脳裏に浮かぶのは、いつも冷静で、どんなに焦る場面でも必ず状況を整理するハヤトの姿。
そのハヤトが今、隔離室で苦しんでいる。
たった一人で。
そう思うと、胸の奥が締めつけられた。
(だから、私がやらなきゃ……!)
◆
そのころ、テオは運動場で別の緊張に直面していた。
「ね、ねぇ……大丈夫? 息、ちゃんとできる?」
目の前にいるのは小さな女の子。
母親に抱えられ、ぐったりしている。
テオは震える手で体温を測り、記録しながら、教員に手を挙げた。
「先生、こっち、呼吸が浅いです……胸も上下が弱くて……!」
教員がすぐさま駆け寄る。
「酸素テントに回すぞ。搬送ルートを開けて!」
その言葉に、テオの心臓は跳ね上がる。
はじめて“命にかかわるかもしれない症状”を目の当たりにした。
頭では分かっていた。
何度も練習はしてきた。
でも、本物の“現場の空気”は違う。
女の子は小さくうめき、母親の腕にしがみつく。
その姿を見ていると、胸の奥から何か熱いものがこみ上げる。
「……だ、大丈夫だよ。すぐよくなるから。俺らがついてるからね。」
そう言った声は震えていた。
でも、母親は絞るような声で「ありがとう」と言ってくれた。
感謝されたのに、テオは自分の情けなさに気づく。
(本当は俺、何にもできてないのに……)
その瞬間、背後で別の患者が倒れた。
「きゃっ!」
「誰か! 意識がないぞ!」
テオは全身が固まった。
頭が真っ白になる。
足が動かない。
呼吸が早くなる。
(どうしよう……どうしたら……!
ハヤトがいれば……!)
その“依存”のような気持ちに気づいた時、テオの顔が苦しげに歪んだ。
(ダメだ……。俺がやらなきゃ……!)
震える膝を押し出し、倒れた患者に駆け寄った。
「す、すみません! 大丈夫ですか!?」
「テオ、気道の確認! 意識レベルを測れ!」
教員が叫ぶ。
テオは必死に耳を澄まし、口元の呼吸を確認し、声をかけながら反応の有無を確かめる。
心臓がバクバクと暴れ、手の汗が止まらない。
(怖い……! でも逃げない……!)
震える心を押し殺しながら、テオは次の指示を待った。
◆
一方、薬剤テントでは、エマの手元に次々と依頼が積み重なっていた。
すでに何十人分もの薬を調整したというのに、まだ終わりが見えない。
疲労で指先がしびれ、頭もぼんやりしてくる。
それでもエマは手を止めなかった。
「リンデンさん、こっちの調合もお願い! 三分以内に!」
「すぐにやります!」
(息をする暇もない……でも……
ハヤトも、きっと今ひとりで頑張ってる。
だから、私も負けられない。)
その闘志だけが、彼女を動かしていた。
◆
夕方になっても、緊張は緩まない。
患者の列は途切れず、医療テント内には疲労と焦燥の空気が満ちていた。
そんな中、エマは調合した薬を抱え、運動場へと出た。
そして――テオの姿を見つける。
汗だくで、顔は真っ青。
だが必死に患者に声をかけ、次の人を誘導しようとしている。
「テオっ!」
エマは思わず駆け寄った。
「だ、大丈夫……。俺、やれるから……。」
「無理してないの? 顔色ひどいわよ!」
「エマこそ……。なんか、すげぇ疲れた顔してる……。」
互いにボロボロなのに、互いを心配しあう余裕は残っている。
それだけで、二人はわずかに息をついた。
「……ハヤトがいなくて、すごく不安だった。」
エマがぽつりと言う。
「俺だってそうだよ。正直、最初は逃げたかった……。でも、逃げられないんだよ……。」
「うん……私たちがやらなきゃ、誰がやるのよね。」
ふたりは短くうなずき合った。
その瞳にはもう、
“学生”ではなく
“医療者になる者”の覚悟が宿っていた。
◆
夕暮れの赤い光が運動場を照らし、長い影が伸びる。
風が冷たく、温度差で患者の咳がいっそう響いた。
それでも、二人は動き続けた。
震える手でも、疲れても、足が痛んでも。
ハヤトがいない空白を埋めるために。
医療の現場に立つ覚悟を示すために。
何より、今この瞬間苦しむ人をひとりでも救うために。
初めての現場は容赦なく過酷だった。
だが、二人は確かにその日――
“大きく成長した”。




