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倒れないでくれ! ――限界と選択を描く医療ヒューマンドラマ――  作者: 東雲 明
三年生編:ゴールデントリオの絆

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第66話 テオ&エマの初実践〜緊張編〜

 ルミエールアカデミーの構内は、もはや学園ではなかった。

 白衣を着た学生と教員が走り回り、臨時の搬送路が作られ、普段は静かな中庭に医療テントが張られている。

 インフルエンザの爆発的流行で、王都の医療機関はあっという間にパンクし、その余波が学園に押し寄せたのだ。


 そんな混乱のただ中で、テオ・アルトとエマ・リンデンは――

 初めて“現場”に立たされていた。



「テオ、体温記録シートは? 搬送者はあと五名追加になるわ。急いで!」


 エマの声が医療テントの中で響く。

 その顔は緊張でこわばっているが、目は鋭く集中している。

 薬理学のトップである彼女でも、実際の現場に立つのは今日が初めてだった。


「えっ、ええっと……これと、これと……あれ、ペンがない!」


「落ち着いて。そんなので動揺してる場合じゃないの。はい、予備。」


「ありがと……!」


 テオは震える手で受け取る。

 いつもならすぐふざける彼も、今日はそんな余裕はない。

 “王国の医療の一端を担う”――その重さを、初めて肌で感じていた。


 学園の運動場には患者の列が続いている。

 咳、呼吸苦、発熱……。

 特に高齢者と子どもが多く、症状の重い者はすぐに保健棟へ搬送される。


 テオは額の汗を拭いながら、次々に患者の体温と症状を聞き取り、簡易カルテを記入していく。

 周りの空気は重い。

 焦りと不安が広がり、誰もが“間違いが許されない”という空気にのまれていた。



 一方のエマは、薬剤テントに籠もり、教員たちと必死に薬を調合していた。

 処方箋が追いつかない。

 薬の在庫は減り続ける。

 重症者には特別な配合が必要で、エマの知識が頼りにされている。


「エマ、抗ウイルス薬のグラム数を確認して。急ぎで三人分!」


「了解です。……先生、ここの濃度、もう少し下げないと副作用が出る可能性があります。高齢者への投与ですよね?」


「さすがだな。じゃあ調整を任せる。君ならできる。」


 そう言われても、胸は張り裂けそうだった。

 失敗すれば、誰かが危険な状態に陥る。

 “教科書の中の薬”が“人の命を守る薬”へ変わる瞬間を、エマは今、目の前で実感していた。


 手がかすかに震える。

 だが、それを止めようと深呼吸し、慎重に、丁寧に、けれど急いで手を動かす。


(……ハヤト、あなたならどうした?)


 脳裏に浮かぶのは、いつも冷静で、どんなに焦る場面でも必ず状況を整理するハヤトの姿。

 そのハヤトが今、隔離室で苦しんでいる。


 たった一人で。


 そう思うと、胸の奥が締めつけられた。


(だから、私がやらなきゃ……!)



 そのころ、テオは運動場で別の緊張に直面していた。


「ね、ねぇ……大丈夫? 息、ちゃんとできる?」


 目の前にいるのは小さな女の子。

 母親に抱えられ、ぐったりしている。

 テオは震える手で体温を測り、記録しながら、教員に手を挙げた。


「先生、こっち、呼吸が浅いです……胸も上下が弱くて……!」


 教員がすぐさま駆け寄る。


「酸素テントに回すぞ。搬送ルートを開けて!」


 その言葉に、テオの心臓は跳ね上がる。


 はじめて“命にかかわるかもしれない症状”を目の当たりにした。


 頭では分かっていた。

 何度も練習はしてきた。

 でも、本物の“現場の空気”は違う。


 女の子は小さくうめき、母親の腕にしがみつく。

 その姿を見ていると、胸の奥から何か熱いものがこみ上げる。


「……だ、大丈夫だよ。すぐよくなるから。俺らがついてるからね。」


 そう言った声は震えていた。

 でも、母親は絞るような声で「ありがとう」と言ってくれた。


 感謝されたのに、テオは自分の情けなさに気づく。


(本当は俺、何にもできてないのに……)


 その瞬間、背後で別の患者が倒れた。


「きゃっ!」

「誰か! 意識がないぞ!」


 テオは全身が固まった。


 頭が真っ白になる。

 足が動かない。

 呼吸が早くなる。


(どうしよう……どうしたら……!

 ハヤトがいれば……!)


 その“依存”のような気持ちに気づいた時、テオの顔が苦しげに歪んだ。


(ダメだ……。俺がやらなきゃ……!)


 震える膝を押し出し、倒れた患者に駆け寄った。


「す、すみません! 大丈夫ですか!?」


「テオ、気道の確認! 意識レベルを測れ!」

 教員が叫ぶ。


 テオは必死に耳を澄まし、口元の呼吸を確認し、声をかけながら反応の有無を確かめる。

 心臓がバクバクと暴れ、手の汗が止まらない。


(怖い……! でも逃げない……!)


 震える心を押し殺しながら、テオは次の指示を待った。



 一方、薬剤テントでは、エマの手元に次々と依頼が積み重なっていた。

 すでに何十人分もの薬を調整したというのに、まだ終わりが見えない。


 疲労で指先がしびれ、頭もぼんやりしてくる。

 それでもエマは手を止めなかった。


「リンデンさん、こっちの調合もお願い! 三分以内に!」


「すぐにやります!」


(息をする暇もない……でも……

 ハヤトも、きっと今ひとりで頑張ってる。

 だから、私も負けられない。)


 その闘志だけが、彼女を動かしていた。



 夕方になっても、緊張は緩まない。

 患者の列は途切れず、医療テント内には疲労と焦燥の空気が満ちていた。


 そんな中、エマは調合した薬を抱え、運動場へと出た。

 そして――テオの姿を見つける。


 汗だくで、顔は真っ青。

 だが必死に患者に声をかけ、次の人を誘導しようとしている。


「テオっ!」


 エマは思わず駆け寄った。


「だ、大丈夫……。俺、やれるから……。」


「無理してないの? 顔色ひどいわよ!」


「エマこそ……。なんか、すげぇ疲れた顔してる……。」


 互いにボロボロなのに、互いを心配しあう余裕は残っている。

 それだけで、二人はわずかに息をついた。


「……ハヤトがいなくて、すごく不安だった。」

 エマがぽつりと言う。


「俺だってそうだよ。正直、最初は逃げたかった……。でも、逃げられないんだよ……。」


「うん……私たちがやらなきゃ、誰がやるのよね。」


 ふたりは短くうなずき合った。


 その瞳にはもう、

 “学生”ではなく

 “医療者になる者”の覚悟が宿っていた。



 夕暮れの赤い光が運動場を照らし、長い影が伸びる。

 風が冷たく、温度差で患者の咳がいっそう響いた。


 それでも、二人は動き続けた。

 震える手でも、疲れても、足が痛んでも。


 ハヤトがいない空白を埋めるために。

 医療の現場に立つ覚悟を示すために。

 何より、今この瞬間苦しむ人をひとりでも救うために。


 初めての現場は容赦なく過酷だった。

 だが、二人は確かにその日――

 “大きく成長した”。

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