第62話 夜間走行訓練〜エマ編〜
夜の訓練棟は、昼とはまるで別の世界だった。
冷気が張り詰めていて、街灯の光は地面の一点だけを照らす。影が濃くて、空気までも黒く染まったみたいだ。
この暗さが、運転の難度をぐっと上げる。
そんな中、今日の主役――エマは、救急車の横で深呼吸を繰り返していた。
「……落ち着け、私。これはただの夜間訓練……ただの暗いだけ……ただの……真っ暗……」
「エマ、目が泳いでるぞ」
「泳いでない! 泳いでるけど泳いでない!!」
いや、完全に泳いでる。
テオの時のカオスとは違うが、エマは“理論派ゆえにテンパると一気に混乱するタイプ”だ。
昼間はほぼ完璧な走行だっただけに、夜の弱点が明確に浮き彫りになる。
三人の中でも、エマは一番冷静なはずだった。
はず、なんだけど――
「ハヤト……わ、私の声、震えてる? 震えてない振りしてるけど震えてる?」
「震えてる。かなり」
「やっぱり……!」
エマは絶望したように頭を抱えた。
助手席のテオが逆に落ち着いて見えるのが不思議なくらいだ。
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■出発前から理論崩壊
生徒会長のミナトさんがタブレットを確認しながら声をかける。
「エマ。夜間は視野が狭くなる分、理論より“体の感覚”が大事だ。
昼のように数値で考えすぎるな」
「は……はい……。考えない……考えないように……考える……いや違う……」
「考えるなと言ったばかりだ」
「すみません!」
エマの混乱が加速していく。
エマは普段、薬理学の計算を頭の中で瞬時にこなす。反射神経も鋭い。
なのに一度テンパると、こうして“情報過多のパンク状態”になる。
――医療の天才でも、人間なんだ。
そう思わせるくらい、今日は弱いエマがそこにいた。
「エマ、まずは座れ。ハンドル握れば少し落ち着くから」
「……うん」
俺が声をかけると、エマはぎこちない動きで運転席へ。
その背筋は普段より数センチ縮んでいる気がした。
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■エンジン始動。だが緊張はピーク
エンジンがかかる。
救急車特有の低い振動がシートを通して体に伝わった。
エマの肩がビクッと跳ねた。
「お、落ち着け……落ち着け……これはただの内燃機関……仕組みは知ってる……」
「知識じゃなくて、呼吸に意識向けろ」
ミナトさんの声がテキパキと響く。
「は、はい……すぅ……はぁ……」
エマは深呼吸して、震える手をハンドルに置いた。
すると少しだけ、表情が引き締まる。
理論よりも、実物に触れて落ち着くタイプなのかもしれない。
「よし……ミラー確認……よし……サイド確認……よし……周囲の歩行者……ゼロ……」
「エマ、そのくらいでいい」
「心配性なんです! 夜だから!」
心配性というより、ただの恐怖状態だ。
だがこの恐怖は、ちゃんと前に進むための恐怖だ。
“分かっているからこそ怖い”という、医療者特有の生真面目さが滲んでいた。
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■発進。理論と直感の間でもがく
「発進しよう。ブレーキから足を離して、ゆっくりアクセル」
「ゆっく……り……」
エマは慎重すぎるほど慎重に車を動かした。
昼間よりもだいぶ遅い。
だが、その遅さが逆に“上手い”と感じさせる安定感がある。
「エマ、今のところ完璧だよ」
俺が言うと、
「ほ、本当……!? やった……! 私でも……できる……!」
嬉しさで声が上ずるエマ。
ただ、それが油断に直結するのがエマの弱点でもある。
「じゃあ前方の白線を……」
「えっ白線!? 白線どこ!? 見えない……いや見える……あった……」
一瞬で混乱。
だが、混乱した後に必ず“自分で修正できる”のがエマの強みだ。
「……見えた。見つけた。大丈夫。落ち着いた」
そう言いながら、エマは姿勢を正した。
昼は余裕だった“確認→実行”が、夜では一つひとつの動作に負荷がかかる。
その負荷に押しつぶされそうになりながらも、エマは戻ってくる。
――やっぱりすごいな、エマは。
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■予想外の弱点:テンパると左右が逆
「次、左折だ」
「了解! 右折します!」
「逆だ!」
エマと同時に俺とテオが叫んだ。
「えっ! あっ……左……左はこっち……!」
慌てて左へハンドルを切るエマ。
だが切りすぎず、ライン内で微調整して戻している。
ミナトさんが感心したように言う。
「テンパると左右を間違える癖は直すべきだが……修正動作そのものは優秀だ」
「ほ、本当ですか……!? ああもう……私大混乱……!」
「なら落ち着け」
ミナトさんに言われ、エマはこくこくと頷いた。
エマはテンパると“反射で逆を言う”癖がある。
怖いのに理屈で何とかしようとするから、頭と言葉が剥離してしまうのだろう。
だけど――
それでもハンドルの動きに致命的な乱れがないのが、エマらしい。
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■暗闇の中で“責任感”が目を覚ます
直線道路に入ると、周囲はより暗くなった。
エマの呼吸が浅くなる。
「……見えない……前が……」
「俺が横から白線見てる。問題ない」
エマはちらっとこっちを見る。
「ハヤト……怖い……怖いけど……」
「うん」
「……私がここで逃げたらさ……夜に出動する救急隊の人たちの努力、理解できなくなるよね……」
その言葉に、胸がきゅっとなった。
エマは弱いから怖がってるんじゃない。
“責任を知っているから”怖がってるんだ。
「エマ、大丈夫だ。走れてる。ちゃんと前見てる。
それに……」
「それに?」
「俺たちが後ろにいる」
エマは目を見開いたあと、小さく笑った。
「……うん。ありがとう」
そこからのエマの走行は、さっきより数段安定した。
恐怖を抱えつつ、それを“前進する力”に変えていた。
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■帰還。小さな誇りと、大きな疲労
コースを一周し、訓練棟へ戻る。
車が止まった瞬間、エマは両手でハンドルを抱きしめるようにして項垂れた。
「つ、疲れた……精神力全部使った気がする……」
「俺の倍は消耗してたよ」
テオが呆れながら言う。
「テオの時のほうがアドレナリンは出た」
俺の本音。
「ひどい!」
車内に笑いが弾んだ。
緊張が解けた証拠だ。
ミナトさんが結論を述べる。
「エマ。夜間に弱いのは明確だが、運転そのものの質は高い。
テンパる癖と左右の混乱が課題だが、致命的ではない。
君は“落ち着いた状態なら誰より正確に走れる”。そこを伸ばせ」
「……はいっ。やります。次は……もっと……落ち着きます」
エマは疲れ切りながらも、しっかりと前を見ていた。
その目は、昼間の“天才”のものではなく、
夜道に立ち向かった一人の医療者の目だった。




