第61話 夜間走行訓練〜テオ編〜
夜のキャンパスは、昼間の喧騒が嘘みたいに静かだった。
訓練棟の裏手に並ぶ救急車だけが、淡い照明の下で鈍い光を反射させている。
冷えた空気を胸いっぱいに吸い込むと、肺の奥まではっきりとした冷たさが届いた。
「……いよいよ、俺の番だなぁ」
隣でテオが、両手を左右にぶらぶら揺らしながら呟いた。
落ち着こうとしているのか、単に緊張しているのか……たぶん、後者だ。
「テオ。大丈夫か?」
「だ、大丈夫……のはず……。いや、やっぱ無理かもしれない……いや、いける……けど無理……どうしよう……」
「落ち着け」
返ってくる言葉が毎秒変わる。
この調子だと、夜間走行に入る前にテオの心拍が先に限界を迎えそうだ。
とはいえ、今日の主役はテオだ。
俺とエマは後部座席で記録と補助に徹する。
指導担当は生徒会長のミナトさん――その隣に座るだけでも緊張するのに、運転席にはテオ。
これはもう、ある意味で実践よりスリリングだ。
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■走り出す前から騒がしい
「よし、乗り込んで。テオ、今日は“夜間の基礎走行”。焦る必要はない」
ミナトさんの声に促され、俺は後部座席へ、エマは助手席へ滑り込んだ。
夜の訓練棟の跳ね返りが窓ガラスに反射して、車内は薄暗く、どこか緊張を煽る。
テオは運転席に座っても、まだ背筋を丸めていた。
「て、手が震えてる……ハンドルってこんなに大きかったっけ……?」
「毎回同じ大きさだよ」
エマが即答した。
テオは苦しそうに笑い、深呼吸を繰り返す。
夜間走行は昼間より難易度が上がる。視界の情報が少ない分、判断を誤りやすい。
テオのように“考えるより先に口が動くタイプ”には、ある意味で向いていない。
けれど――
だからこそ、テオ自身もそれをわかっているはずだ。
「テオ、まずはエンジンかけろ。始めの一歩だ」
「……ん、よし。えっと……これ、回して……えいっ」
キーが回り、救急車のエンジンが低く唸り始めた。
夜の空気を震わせるその音を聞いた瞬間、テオの喉が小さく動いた。
――本当に怖いんだろう。
だけど、逃げ出そうとしない。
俺はそれだけで、テオの成長を少し感じた。
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■出発。すでに不安。
「じゃ、発進しよう。まずはハンドルをまっすぐ……」
「えっ、ちょ、あれ……? ミラーってこんなに暗かったっけ!? 何も見えな……あ、写ってる写ってる……ごめん見えてた」
「落ち着けって」
ミナトさんが半眼になりながら指示を続ける。
「アクセルは軽く。ブレーキから足を離して、ゆっくり……」
「ゆっくり……ゆっ……くり……んあああああ!」
「なんで叫ぶんだよ!」
テオの叫びとは裏腹に、車体はむしろ驚くほどゆっくり進んだ。
というか、カタツムリでも抜かせるくらいのスピードだ。
助手席のエマが深く息を吐く。
「テオ。あなた、アクセル踏んでるつもりで、ほとんど踏んでません……」
「えっ!? こ、これで!? じゃあちゃんと踏むとどうなるの!? 怖い!!」
「知らん……いや知れよ……」
運転席で完全に混乱しているテオと、それに疲れ始めているエマ。
後部座席の俺は、すでに軽く頭痛がしてきた。
でも――車は確実に前へ進んでいる。
それだけで、テオにしては上出来だ。
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■夜道は“暗い”だけじゃない
敷地を出て、夜間走行用のルートへ入る。
街灯は最低限しかなく、道路の両側は暗い林。
昼間よりも視野が狭まり、テオの肩がさらに強張った。
「視界が……視界が狭い……! これ、前見えてる? 俺ちゃんと見えてる!?」
「見えてる。だから前の白線を追え」
ミナトさんの冷静な声。
「ま、前の白線……あっ……白い……白いラインが見える……これを……こう……!」
「実況しなくていい……」
でも、不思議だった。
叫びながらでもテオは白線を踏まない。
蛇行もあるけど、致命的なズレにならない。
ミラーも、先ほどより頻繁に確認している。
……もしかして。
テオ……めちゃくちゃ怖い時ほど、逆に“動作そのもの”は正確になるタイプか?
本人はパニックだが、筋肉はちゃんと仕事している。
医療現場にはたまにいるタイプだ――自覚なしに“危機対処スイッチ”が入る人。
「テオ、良いぞ。そのまま直進だ」
「ひぃぃぃ……! 褒められるのは嬉しいけど怖い……!」
涙目で進んでいくテオを見ながら、俺は内心で苦笑した。
怖がりすぎているのに、ちゃんと運転できている。
これはこれで、テオらしい強さだ。
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■予想外の成長
「じゃあ次、右折だ」
ミナトさんが前方の標識を指差す。
「右折……右折……右って……どっち……?」
「テオ落ち着け!」
エマが思わず叫ぶ。
「手で確認しろ!」
俺も慌てて声を上げる。
「み、右手が……これ……! 右折、了解……!」
テオは手を少し持ち上げ、向きを確認し、慎重にハンドルを切った。
その動きは――予想よりずっと正確だった。
「おっ……」
エマが小さく声を漏らした。
ミナトさんも頷く。
「さっきより良いぞ。確認動作を声に出すのはいい習慣だ。続けろ」
「えっ……ほ、本当!? お、俺……今できてた!?」
「できてたよ。テオ、その調子だ」
俺が言うと、
「う、うそ……!? うそ!? 俺、ちゃんとした!? やったぁ……!」
テオがパニックと嬉しさが混ざったような笑顔で震える。
その顔が、なんとも言えずテオらしい。
――怖い怖いと言いながらも、進んでいる。
それは十分、“成長”だ。
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■ちょっとだけ強くなった背中
コースを一周して、訓練棟の車庫へ戻る。
ようやく車が止まり、テオは両手を天に向けて伸ばした。
「生きて帰ってきたぁああああ!!」
「死ぬ要素ゼロだろ」
俺とエマが同時にツッコむ。
だけど……確かに、途中で何度か俺の心臓も危なかった気がする。
テオは疲れ切った様子で座席に背中を預けた。
けれど、その表情は――ほんの少し誇らしそうだ。
「テオ。今日の運転、意外と安定していた」
ミナトさんが言う。
「えっ……安定……!? 俺が……!?」
「驚くほどではない。君は声が出る分、周囲が修正しやすい。
それに“確認しようとする意志”は強い。夜間はその意志が判断力に直結する」
「……ふぇ……」
テオが、泣き笑いみたいに顔をくしゃくしゃにした。
「俺……できたんだ……? ちょっとだけでも……?」
その小さな一言に、胸の奥が温かくなった。
テオはドジで臆病で、すぐ騒いで、よく転ぶけど――
それでも、絶対に逃げない。
その強さを、俺は知っている。
「できてたよ。テオは……ちゃんと前見て走ってた」
そう言うと、テオは俯いて、小さく鼻をすする音を立てた。
「ありがとな……ハヤト……俺……もうちょっと頑張れる気がする……」
夜の車庫で、テオの背中は確かに“昨日より少しだけ強くなっていた”。




