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倒れないでくれ! ――限界と選択を描く医療ヒューマンドラマ――  作者: 東雲 明
三年生編:ゴールデントリオの絆

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第60話 夜間走行訓練〜ハヤト編〜

夜の訓練棟は、昼とはまるで違う顔をしていた。

 コンクリートの壁に響く足音は昼よりずっと重く、暗闇に沈んだ構内は、わずかな照明だけが地面をぼんやりと照らしている。

 俺――ハヤト・キサラギは、救急車の前に立って、夜風の冷たさを頬で感じていた。


 昼の訓練より怖いかもしれない。

 そう思っていた。

 でも、ここから逃げる気はない。

 救急車を運転するということは、夜だろうが雨だろうが、患者が待っているなら必ず走らないといけない。

 その覚悟が必要だと、ミナト生徒会長から散々叩き込まれてきた。


「ハヤト、準備できた?」

 背後から声をかけてきたのは訓練担当の指導員・グラデウス先生だった。

 強面だが、基本的には優しい。ただし運転だけは容赦なく絞る。


「……はい。正直、ちょっと緊張してますけど」


「緊張して当然だ。むしろ緊張しないほうが怖い。夜間は見えないものが多すぎる。

 それに、緊急走行は一度気を抜けば“死”が隣に来る」


 その言葉に、胸の奥がぎゅっと掴まれた。

 自分が走らせる車の上に、命が乗る。

 頭ではわかっていたつもりなのに、その現実が夜の闇のせいで輪郭を濃くしてくる。


「エンジンかけてみろ。ライト類も全部チェックだ」


 俺は深く息を吸って、運転席に乗り込んだ。

 シートに腰を下ろすと、夜の空気が外より一段と重く感じられる。

 ハンドルに触れると、冷たい金属の感触が手のひらから胸へと伝わり、無意識に背筋が伸びた。


 キーを回す。

 エンジンが低く唸り、救急車のボディが震える。


 前照灯を点灯。

 夜の闇に二本の光が伸びる。

 思った以上に狭い範囲しか見えず、視界が切り取られたような圧迫感が襲ってきた。


「視界、狭いですね……」


「そうだ。夜の走行は、昼の“半分の情報”しか入ってこない。

 だからこそ、見えるものより“見えないものを予測する”ことが大事だ」


 黒川先生の声が、重くのしかかる。

 俺は深く頷いて、シートベルトを締めた。



■訓練開始


「では行くぞ。まずは構内を一定速度で走ってみる。

 速度は控えめでいい。とにかく視界に慣れろ」


「了解です」


 アクセルを軽く踏むと、救急車がゆっくりと前に進んだ。

 昼間よりも、スピードの感覚が狂う。

 ライトに照らされた十メートル先のアスファルトだけが世界の全てのようだ。


 右側の影が、不気味だ。

 街灯の届かないところは完全に黒く沈み、何かが潜んでいるように感じてしまう。


(落ち着け……落ち着け、俺)


 呼吸がほんの少し速くなるのを感じて、意識的にゆっくり息を吸った。


「いいぞ。速度は安定している。

 だが、“その先に何か飛び出してくるかもしれない”と思いながら走れ」


 その言葉が刺さる。

 昼のように見渡せないぶん、周囲の影がすべて不気味に思える。


(もし子どもが路地から走ってきたら?

 もし高齢者がふらついて横断してきたら?

 もし……患者を後ろに乗せていたら?)


 想像した瞬間、背筋に冷たいものが走った。

 夜の救急車は、こんな恐怖と戦いながら走っているのか。



■コース変更、緊急対応訓練へ


「では次だ。右折して外周に入れ」


「了解!」


 ライトが曲がる角度でアスファルトを斜めに照らし、視界が一瞬揺れる。

 昼間なら気にも留めない変化が、夜だと胸の鼓動を跳ねさせる。


 ぐるりと構内を回り込むと、先生が指示を出した。


「次は、想定外の障害物回避訓練だ」


「障害物……?」


 その瞬間――


 ガツンッ!


 視界の先に、黒い影が突然現れた。

 車体ほどの大きさの黒い布をかぶせたダミーだ。

 ライトが当たるまで完全に見えなかった。


「っ!」


 反射的にブレーキ。

 ハンドルを左に切る。

 タイヤが悲鳴を上げ、救急車の大きな影がぐらりと揺れた。


「停止位置、いいぞ。

 本番なら命を救えているだろう」


 グラデウス先生のその言葉に、胸の奥がじんわり熱くなった。


 だが、まだ終わらない。


「次は緊急走行モードでいく。

 サイレンを鳴らし、指示に従って最大速度まで加速しろ」


 心臓が一回、強く跳ねる。


(これが……本番の速度……)


 俺はスイッチを押した。


 ――パォーン、パォーン。


 夜の静寂を破るサイレンの音。

 自分がその音を鳴らしている、その事実だけで震えそうになる。


「行け、ハヤト!」


 アクセルを踏み込む。

 救急車が大きく前に押し出される。


 ライトの先がどんどん遠くなり、視界が伸びる。

 影が横に流れていく。


(速い……!

 これで本当に間に合うのか……?

 救わなきゃいけない命があるのに、俺がミスったら……)


 胸が痛いほど締め付けられる。


「息が荒くなってるぞ、ハヤト。

 呼吸を整えながら走れ。焦りは判断を狂わせる」


「……はい!」


 救急車を走らせながら、俺は必死に息をゆっくり吸った。


(落ち着け。

 怖くていい。

 怖さを認めて、その上で前に進むんだ)



■急制動訓練


「次、三秒後に急ブレーキだ。

 1……2……3!」


「っ!」


 踏み込んだ瞬間、車体がガクンと前に沈む。

 シートベルトが肩に食い込み、前方のライトが地面を近距離で強く照らす。


 こんなに重い車両を、一瞬で止めないといけない。

 もし患者が後ろにいたら――

 どんな衝撃になるのか。

 どれだけ丁寧に、でも素早く止めればいいのか。


 考えれば考えるほど難しくなる。


「ハヤト、いい反応だ。だが、次は“衝撃を抑えるブレーキ”を試してみろ」


「……はい。やってみます」


 今度はゆっくり制動。

 急停止なのに、衝撃を最小限に。


 そんな矛盾した行為を、救急車は求めてくる。



■訓練終了


 すべて終わったころには、手のひらが汗でびっしりだった。

 降りると足が少し震えていて、自分がどれだけ緊張していたか思い知る。


「ハヤト」


「はい」


「今日の走りは――“夜の運転の怖さを知った”という点で合格だ」


 合格。

 その言葉が夜風よりも重く、じわっと胸に広がった。


「救急車の運転は、“怖さ”を失ったら終わりだ。

 夜は特に、慢心が命を奪う。

 その怖さを理解し、それでも前へ進める者だけがステアリングを握る資格がある」


 グラデウス先生の言葉が、まっすぐ胸に刺さる。


「君にはその資格がある。

 今日の走りでそれがわかった」


「……ありがとうございます」


 喉の奥が熱くなり、思わず目を伏せた。

 夜間走行は怖い。

 でも――乗らなければいけない。

 助けるために。



■帰り道、俺が思ったこと


 夜の構内を歩きながら、俺は救急車を振り返った。


 白い車体は、昼とは違ってどこか静かに眠っているように見える。

 だけど、ひとたびサイレンが鳴れば、誰よりも速く命の元へ走らなければいけない。


(俺は……あのハンドルを握れるだろうか)


 怖い。

 でもその怖さは、逃げるためのものじゃない。

 守るためのものだ。


 なら――このまま立ち止まっているわけにはいかない。


(次の訓練では、もっと前に進めるように)


 俺は静かに決意した。


 夜風が頬を撫で、遠くで救急車の本物のサイレンが響いた。

 その音が、俺の胸の奥に強い炎を灯す。


 ――必ず強くなる。

 救える命がある限り。


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