第6話 酔い止めを信じた俺が悪かった
ルミエール特急は、まるで遠慮を知らない獣のように、深い森の奥へと突き進んでいく。
窓の外を流れる緑は、もはや景色というより、ただの色の奔流だった。木々が重なり合い、陽光が断続的に差し込むたび、車内が一瞬だけ明るくなる。
ガタン、ゴトン。
本来なら規則正しいはずの振動が、今日は妙に乱れている気がした。列車がカーブを切るたび、車体が大きく揺れて、内臓が遅れて追いついてくるような感覚が襲う。
俺は膝の上に広げた医学書に目を落としていた。専門用語がびっしり並ぶページは、何度も読み返してきたはずなのに、今日は一文字も頭に残らない。
視線を少し上げると、窓の外の森が激しく揺れた。
――いや、揺れているのは列車の方だ。
わかっている。それなのに、胃の奥がざわつき始める。冷や汗が背中を伝うのがわかる。
「……まずい」
小さく呟いた声は、車輪とレールの激しい音にかき消された。
揺れに合わせて内臓が浮遊するような不快感。深呼吸をしようとするほど、逆に息が浅く、速くなる。
これは間違いなく、乗り物酔いだ。
孤児院の送迎バスでも、時々こうなった。あの頃は年下の子供たちに弱みを見せまいと、必死で顔を強張らせて耐えていたっけ。
――今さら、こんなことで。
情けないと思う間もなく、吐き気が喉元までせり上がってきた。
「おっと、ハヤト」
隣の席から、いつもの間延びした声が降ってきた。
テオだ。
俺の顔を覗き込んで、なぜか目をきらきらさせている。
「その顔、完全に酔ってるじゃん?」
「……見りゃわかるだろ」
「いやぁ、さすが俺の相棒だなって思ってさ」
何がさすがなんだよ。
テオは満足げに頷くと、ポケットから小さなガラス瓶を取り出した。
「ほら。これ、俺の特製・酔い止め。
飲めば一発で治るぜ」
「……“特製”って言葉だけで嫌な予感しかしないんだが」
「安心しろって! 俺を信じなよ!」
その言葉に、逆に不安が倍増する。
でも、胃のむかつきはもう限界に近かった。頭で考えるより先に、身体が悲鳴を上げている。
俺は渋々瓶を受け取った。
中身は透明で、見た目は普通の薬みたいだ。匂いも特にない。
「本当に酔い止めなんだな?」
「当たり前だろ!」
テオは大仰に胸を張る。その自信満々な態度が、一番信用できない。
だけど、もう選択肢はなかった。
水で一気に流し込む。
舌に広がったのは、想像を絶する強烈な苦味だった。
「……っ」
思わず顔をしかめた。
「苦っ……」
「効いてる証拠だろ!」
どんな理屈だよ。
そう毒づいた次の瞬間――
世界が急に遠退いていく。
さっきまでの吐き気が、嘘みたいに消え失せた。
代わりに、全身の力がすとんと抜けていく。
視界の端がぼやけ、ゆっくりと暗くなっていく。
「……あれ?」
抗おうとしたけど、瞼が重い。まるで誰かに優しく引きずり込まれるように、意識が沈んでいく。
次に感じたのは、温かさだった。
肩に触れている、柔らかな温もり。
人の肩だ。
妙に心地よくて、安心する。
――ああ、これは……
そのまま、俺は深い眠りに落ちていった。
夢を見ていた。
孤児院の中庭。午後の柔らかな陽射しが、乾いた洗濯物を優しく揺らしている。
小さな手が、俺の服の裾をぎゅっと掴んだ。
『ハヤトにぃに!』
振り向くと、そこにエレナが立っていた。
少し上目遣いで、でも誇らしげな笑顔。
『本当にお医者さんになるんだね!』
『すっごいよ! エレナのヒーローになってね!』
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
――俺は、ちゃんと約束守れてるかな。
答えを探すより先に、自然と声が漏れた。
「……エレナ……」
次の瞬間。
「いい加減にしなさい!!」
鋭い怒声が、夢を真っ二つに切り裂いた。
「――っ!?」
俺は反射的に跳ね起きて、勢いあまって身体のバランスを崩した。
視界が一気に鮮明になり、現実が雪崩のように押し寄せる。
目の前にいたのは、怒りと恥ずかしさで真っ赤になったエマだった。
「な、何勝手に抱きついて寝てるのよ、この大寝坊助!!」
「……え?」
状況を理解するより早く、エマの怒涛の言葉が続いた。
「このエマ様を枕代わりにするなんて、どんだけ図々しいの!?
しかも!」
細い指が俺の顔面に突きつけられる。
「寝言で女の子の名前呼んでたでしょ!
『エレナ……ヒーロー……』って! 誰よその子!!」
頭が一瞬、真っ白になった。
心臓がどくんと跳ねる。
――まずい。
エレナの名前を、こんなところで。
エマの瞳が、怒りだけでなく、何か別の感情で揺れているのがわかった。嫉妬? それとも、ただの苛立ちか。
周囲の視線が、針のように刺さる。
車内の空気が、一気に張り詰めた。
「ち、違っ……」
違う。違うんだ。説明しなきゃ。
でも言葉が喉に詰まる。
その隙を逃さず。
「はははははは!!」
腹を抱えた爆笑が、すぐ横から炸裂した。
テオだ。
涙を浮かべて笑いながら、俺の肩をバンバン叩いてくる。
「やっぱ効いたかぁ! 完璧だよハヤト!」
エマの視線が、ゆっくりとテオに移る。
空気が、凍りついた。
「テオ……」
低く、静かな声。
それが、嵐の前の静けりだった。
「てめえの“酔い止め”、どう考えたって眠り薬だろ!!」
エマの怒号が、車内に雷鳴のように轟いた。
テオの笑顔が、初めて引きつる。
「え? でも、酔いは止まったじゃん?」
「その理屈が最悪なのよ!!」
エマが立ち上がる。
席を蹴るような勢いで、テオに詰め寄る。
周囲の乗客たちが、息を飲んで見守る。
ひそひそ声が、次第に大きくなっていく。
「見た? 完全に抱きついてたよね」
「寝言で別の女の子の名前って……最低」
「しかも薬で寝かせたって……やばくない?」
視線が、熱い。
俺の顔が、熱くなる。
恥ずかしさと、後悔と、怒りが混じり合って、胸が締めつけられる。
テオはまだ笑おうとしているが、エマの眼光に押されて、後ずさりし始めていた。
「待てよエマ、冗談だって! ちょっとしたイタズラで――」
「イタズラのレベル超えてるわ!!」
エマの手が、テオの襟首を掴む。
車体が大きく揺れた瞬間――
ガタンッ!
列車が急ブレーキをかけた。
全員の身体が、前につんのめる。
エマがよろめき、テオが支えようとして、逆に三人とも絡まるように倒れかかる。
俺の腕が、エマの腰に回る。
エマの息が、すぐ近くで感じられた。
時間がいったん、止まった。
周囲の視線が、最大級に集中する。
沈黙。
そして――
「きゃああああああ!!」
エマの悲鳴が、車内に炸裂した。
顔が、真っ赤を通り越して紫に近い。
「離せこの変態!!」
俺は慌てて手を離すが、すでに遅い。
テオは床に転がりながら、腹を抱えて笑い転げている。
車内アナウンスが、静かに流れた。
「まもなく、ルミエールアカデミーに到着いたします。
お降りのお客様は、準備をお願いいたします」
――最悪のタイミングだ。
荷物をまとめながら、俺は深いため息をついた。
エマはまだ顔を赤くしたまま、俺を睨んでいる。
テオは笑いすぎて涙を拭っている。
これが、俺の学園生活の始まり。
期待なんて、最初から吹き飛んだ。
ただただ、不安と、強烈な予感だけが胸に残る。
――これから、どんな地獄が待ってるんだ。
列車の扉が、ゆっくりと開いていく。
外から差し込む光が、眩しい。
俺は、覚悟を決めて、一歩を踏み出した。
……静かな日々なんて、永遠に来ない気がする。




