第54話 触れたら壊れそうで、でも離れたくない
三年生になった朝は、いつもより空気が澄んで感じた。寮の玄関に差し込む光が眩しいというより、胸の奥をくすぐるように温かい。
理由はわかっている。
今日はエレナと外で会う。
デート、と言うにはどうしても照れくさいけれど、実質そうなんだろう。
俺は玄関前で息を整えた。医療実習前より緊張してるってどういうことだ。
「ハヤトー、置いてくよー!」
突然、テオがパンを咥えたまま突っ込んできた。三年生になっても落ち着く気配がないのは逆に安心する。
「今日はいい。朝食どころじゃない。」
「やっぱりデートだ!」
エマが後ろから静かに現れ、淡々とした声で追い打ちをかけてくる。
「……なんで知ってる。」
「エレナちゃん、今日は午前だけ通学許可出てた。あなたがそわそわしてたのも見てた。」
エマの観察眼には敵わない。
でも、図星すぎて返す言葉がなくなる。
「蛇寮、最近動きが荒いわ。エレナちゃんにだけは近づけないように。」
「わかってる。……絶対に、守る。」
口にした瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
守りたいという感情は、昔とはもう違う意味を持っている。
エマが満足げに頷き、テオが応援のつもりか背中を思いっきり叩いてくる。
「いってらっしゃーい! ちゃんと男らしく決めてこい!」
……余計な一言だ。
◆
駅前に着いた俺は、思わず足を止めた。
待っていたエレナは、前より背が伸び、髪も肩で軽く揺れている。
制服は同じはずなのに、雰囲気がまるで違う。
ほんの少し触れたら壊れそうなくらい綺麗だ。
「……遅い。」
エレナが頬を膨らませる。その仕草だけで心臓が跳ね上がる。
「悪い。……似合ってる、その制服。」
言った瞬間、エレナの耳がかすかに赤く染まった。
そんな反応されると、俺の心臓のほうが危ない。
「ありがと……。べつに、ちょっとは褒められ慣れてるけど。」
強がってる声が震えてるのを、俺は見逃さなかった。
並んで歩くだけで、距離が近い。袖が触れそうになるだけで鼓動がひどい。
◆
湖畔のカフェで、エレナはミルクティーを両手で包みながら俯いた。
「ねぇ、ハヤト。……私、もう子どもじゃないよ。」
胸の動きが止まったかと思った。
急変対応より難しい。彼女の一言は、俺にとってそれくらい強い。
「……わかってる。前から。」
「ほんとに?」
エレナの瞳がまっすぐ俺を射抜く。「私、ハヤトに……ちゃんと見てほしい。」
心臓が跳ねる音が、彼女に聞こえてないか不安になるほどだった。
「見てる。……ずっと。」
言葉が抑えきれずに漏れる。
エレナは柔らかく微笑んだ。その顔にまた胸が熱くなる。
◆
帰り道、蛇寮の生徒二人が道を塞いだとき、エレナの指が俺の袖を強くつまんだ。
「インゼル嬢、随分元気になりましたねぇ。」
挑発を含んだ声。
俺の中で何かがはっきりと固まる。
「エレナに関わるな。……次は寮長に報告する。」
自分でも驚くほど低い声だった。蛇寮の二人は顔を歪め、舌打ちして去っていく。
エレナが小さく震えた声で囁く。
「ハヤト……手、握ってもいい……?」
そんなの、断れるわけがない。
俺はそっと彼女の手を包んだ。細くて、温かくて、守りたいと思う理由が一瞬で増えていく。
◆
校門前まで戻ると、夕陽の中でエレナが立ち止まった。
「ねぇ、前に……約束したよね?」
胸が一気に熱くなる。
覚えている。忘れたことなんか、一度もない。
エレナは俺の制服の胸をそっと掴む。
「……今、してほしい。」
心臓が爆発しそうだった。
医療の教科書に載っていない症状だ。息がうまく吸えない。
俺はゆっくりエレナの頬に手を添え、彼女が逃げないように目を見つめた。
そして――そっと唇を触れさせた。
長くはない。けれど、世界が静まるほど甘くて柔らかい。
離れたとき、エレナの瞳が潤んでいた。
「これで……ちゃんと、わかってくれたよね?」
「……ああ。」
胸がまだ熱くて、呼吸が浅い。
俺はエレナを守りたいだけじゃない。
彼女が好きなんだと、やっと自分で認めた。




