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第54話 触れたら壊れそうで、でも離れたくない

 三年生になった朝は、いつもより空気が澄んで感じた。寮の玄関に差し込む光が眩しいというより、胸の奥をくすぐるように温かい。

 理由はわかっている。

 今日はエレナと外で会う。


 デート、と言うにはどうしても照れくさいけれど、実質そうなんだろう。

 俺は玄関前で息を整えた。医療実習前より緊張してるってどういうことだ。


 「ハヤトー、置いてくよー!」


 突然、テオがパンを咥えたまま突っ込んできた。三年生になっても落ち着く気配がないのは逆に安心する。


 「今日はいい。朝食どころじゃない。」


 「やっぱりデートだ!」

 エマが後ろから静かに現れ、淡々とした声で追い打ちをかけてくる。


 「……なんで知ってる。」


 「エレナちゃん、今日は午前だけ通学許可出てた。あなたがそわそわしてたのも見てた。」


 エマの観察眼には敵わない。

 でも、図星すぎて返す言葉がなくなる。


 「蛇寮、最近動きが荒いわ。エレナちゃんにだけは近づけないように。」


 「わかってる。……絶対に、守る。」


 口にした瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。

 守りたいという感情は、昔とはもう違う意味を持っている。


 エマが満足げに頷き、テオが応援のつもりか背中を思いっきり叩いてくる。


 「いってらっしゃーい! ちゃんと男らしく決めてこい!」


 ……余計な一言だ。



 駅前に着いた俺は、思わず足を止めた。

 待っていたエレナは、前より背が伸び、髪も肩で軽く揺れている。

 制服は同じはずなのに、雰囲気がまるで違う。


 ほんの少し触れたら壊れそうなくらい綺麗だ。


 「……遅い。」

 エレナが頬を膨らませる。その仕草だけで心臓が跳ね上がる。


 「悪い。……似合ってる、その制服。」


 言った瞬間、エレナの耳がかすかに赤く染まった。

 そんな反応されると、俺の心臓のほうが危ない。


 「ありがと……。べつに、ちょっとは褒められ慣れてるけど。」


 強がってる声が震えてるのを、俺は見逃さなかった。


 並んで歩くだけで、距離が近い。袖が触れそうになるだけで鼓動がひどい。



 湖畔のカフェで、エレナはミルクティーを両手で包みながら俯いた。


 「ねぇ、ハヤト。……私、もう子どもじゃないよ。」


 胸の動きが止まったかと思った。

 急変対応より難しい。彼女の一言は、俺にとってそれくらい強い。


 「……わかってる。前から。」


 「ほんとに?」

 エレナの瞳がまっすぐ俺を射抜く。「私、ハヤトに……ちゃんと見てほしい。」


 心臓が跳ねる音が、彼女に聞こえてないか不安になるほどだった。


 「見てる。……ずっと。」


 言葉が抑えきれずに漏れる。

 エレナは柔らかく微笑んだ。その顔にまた胸が熱くなる。



 帰り道、蛇寮の生徒二人が道を塞いだとき、エレナの指が俺の袖を強くつまんだ。


 「インゼル嬢、随分元気になりましたねぇ。」


 挑発を含んだ声。

 俺の中で何かがはっきりと固まる。


 「エレナに関わるな。……次は寮長に報告する。」


 自分でも驚くほど低い声だった。蛇寮の二人は顔を歪め、舌打ちして去っていく。


 エレナが小さく震えた声で囁く。


 「ハヤト……手、握ってもいい……?」


 そんなの、断れるわけがない。

 俺はそっと彼女の手を包んだ。細くて、温かくて、守りたいと思う理由が一瞬で増えていく。



 校門前まで戻ると、夕陽の中でエレナが立ち止まった。


 「ねぇ、前に……約束したよね?」


 胸が一気に熱くなる。

 覚えている。忘れたことなんか、一度もない。


 エレナは俺の制服の胸をそっと掴む。


 「……今、してほしい。」


 心臓が爆発しそうだった。

 医療の教科書に載っていない症状だ。息がうまく吸えない。


 俺はゆっくりエレナの頬に手を添え、彼女が逃げないように目を見つめた。


 そして――そっと唇を触れさせた。


 長くはない。けれど、世界が静まるほど甘くて柔らかい。


 離れたとき、エレナの瞳が潤んでいた。


 「これで……ちゃんと、わかってくれたよね?」


 「……ああ。」


 胸がまだ熱くて、呼吸が浅い。

 俺はエレナを守りたいだけじゃない。

 彼女が好きなんだと、やっと自分で認めた。


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