第53話 実習初日〜揺さぶられる現場〜
三年生の実習初日。
俺は胸の奥がざわつくのを抑えながら、病棟へ向かう白い廊下を歩いた。今日から俺たちは、外来と救急を含むローテーションに本格的に放り込まれる。失敗すれば即刻評価に響く――そんな場所だ。
隣ではテオが緊張しすぎて、若干挙動不審になっている。
「う、うわ、なんか吐きそう……」
「やめろ。初日に嘔吐はしゃれにならん」
エマはカルテを確認しながら、冷静を装っているが指先がかすかに震えていた。
「……三年の初日だもの。緊張しない方がおかしいわ」
だけど、それだけじゃないのは分かっていた。
昨日のマルクスの挑発。そして蛇寮の異様な空気。
実習担当の指導医・クロエ先生が俺たちを迎えた。四十代で、厳しさと温かさの両方を併せ持つ人だ。
「キサラギ、アルト、リンデン。三人は今日、救急外来の補助だ。患者の動きを見て判断しろ。質問は?」
「ありません!」
三人で声を揃えた。
……が、問題はすぐ起きた。
*
午前十時を過ぎた頃、初めて運ばれてきたのは胸痛を訴える中年男性だった。
俺たちは指示通り動き、バイタルを取り、血圧低下、冷汗、胸部圧迫感――典型的な心疾患の兆候を見逃さず、クロエ先生へ報告した。
だが――その瞬間。
「報告が遅すぎるんじゃないか?」
背後から落ちるような声。
振り返ると、蛇寮の上級実習生、クロイツだ。マルクスの右腕と呼ばれる男で、冷たい目をしている。
クロエ先生は眉をひそめた。
「クロイツ、ここは俺の担当だ。口を挟むな」
「先生。ですが……キサラギたちは判断が甘い。特にアルトは――」
テオがびくっと肩を跳ねさせた。
「なんだよ……俺、何か……」
「お前の動線が邪魔なんだよ。医療者を名乗るなら、最低限足を引っ張るな」
エマが一歩前に出た。
「今のテオの動きは指示通りよ。あなたの方こそ――」
「リンデン、やめろ」
俺はエマの肩に手を置いた。
この男と言い争うのは危険だ。マルクスと同じで、周囲を巻き込むようなタイプだ。
クロイツは鼻で笑った。
「キサラギ、お前は昨日も今日も“仲間を庇ってばかり”だな。情で動く医療者は一番危険だ」
その言葉が胸の奥に刺さった。
情?
仲間を守るのが悪いってのか。
クロエ先生が割って入った。
「クロイツ、いい加減にしろ。ここは現場だ。政治争いをする場所じゃない」
クロイツはあっさり肩をすくめ、背を向けた。
「まあ見ていればわかりますよ。すぐに。三人がどれだけ保つか」
その言葉を残し、蛇のように去っていった。
*
救急は次の患者で休む暇もなかった。
だが、むしろその忙しさに救われた。余計なことを考える暇が少しだけ減るからだ。
昼を過ぎた頃。
腕を切った高校生が運ばれてきた。転倒による裂創。大量出血ではないが早急な処置が必要だ。
「ハヤト、消毒準備できてる!」
テオが器具を並べながら声を上げた。
「ああ、縫合セットも取った。エマ、ガーゼ追加頼む!」
「了解!」
三人の連携は、いくつかの実習班よりずっと速かった。黒江先生も感心したように小さく頷いた。
だが――
その時、背後で器具トレーが落ちる音がした。
蛇寮の学生、カイ・リヒターが、わざとらしく倒したのだ。
「あ、悪いな。手が滑った」
いや、滑ってねぇ。
床に散らばった器具を見て、患者の顔が不安に曇る。
「……大丈夫か、これ……」
その不安にすかさずカイが言った。
「心配ありませんよ。キサラギたちは“仲良し班”ですからね。実力より絆で動くんですよ」
笑わせる。
医療現場でそんなことを言うやつが、医療者を名乗っていいのか。
俺の手がわずかに震えた。
昨日から抑えてきた怒りが、また浮かび上がる。
「……いい加減にしろよ」
低く呟いた瞬間、空気が変わった。
テオとエマが俺の両側に立つ。
「ハヤト、大丈夫だから。こっち集中しよ」
「余計な挑発に乗ったら負けよ」
その声に、ぎりぎりのところで踏みとどまる。
クロエ先生が鋭い視線でカイをにらんだ。
「リヒター。次やったら、実習から外すぞ」
カイは舌打ちし、黙り込んだ。
*
処置が終わると、患者はほっとした表情で俺たちに礼を言った。
「ありがとう。……三人、息が合ってた」
その一言で胸の奥の緊張が溶けていく気がした。
「当たり前ですよ。俺たち、三年の中でも結構強いチームなんで!」
テオが胸を張ると、エマが小声で突っ込む。
「言いすぎ」
俺はそのやり取りに小さく笑った。
……そうだ。俺たちは折れねぇ。
蛇寮の挑発がどうだろうと。
誰かの悪意がどれだけ続こうと。
三人で現場に立てば、ちゃんと救える。
「行くぞ、二人とも。まだ午後が残ってる」
「おう!」
「了解!」
俺たちは再び歩き出した。
乱されながらも、揺さぶられながらも、その一歩が確かに前へ進んでいると信じた。




