第52話 軋轢の深層〜爆発寸前の心臓〜
始業式から一日経っただけなのに、学園全体の空気はもうきな臭かった。三年生に進級し、急に求められる責任が増えたせいもあるが、それ以上に――蛇寮との軋轢が明らかに強まっていた。
特にマルクス・ヴェルナー。
あいつの目が、昨日よりさらに冷たい。
講義棟に向かう途中、俺とテオとエマが並んで歩いていると、蛇寮の連中がわざとらしく通路を塞いでいた。マルクスは中央に立ち、腕を組んでこちらを見下ろすような姿勢を取っている。
テオが小さく肩を震わせたのを感じた。
「……またかよ」
俺は息の奥底がじりじり熱を帯びるのを感じた。
「おい、どけ」
できるだけ冷静に言う。だがマルクスはゆっくり近づいてきて、俺の肩を指先で小突いた。
「キサラギ。君はいつまでそんな“仲良しごっこ”を続けるつもりなんだ? 三年にもなって、自分の能力じゃなく“友情”にすがるなんて……みっともない」
胸の奥がざわついた。
だが、踏みとどまる。三年になったばかりで停学なんて笑い話にもならない。
「俺たちは依存なんかじゃねぇ。互いの弱さを補い合ってるだけだ」
するとマルクスは“待ってました”という顔で笑った。
「弱さ、ね。認めるんだ? アルトとリンデンは、“弱い”って」
言葉の刃が一瞬で、俺の奥底の何かを刺した。
テオの顔が青ざめ、エマが息を呑む。
テオは弱い?
エマが弱い?
――違う。
「お前、言葉選べよ」
低く声が漏れた。
取り巻きがわざとらしく吹き出した。
「図星だから怒ってるんだろ?」
「お前、去年の実習でも取り乱してたもんな。感情的な医者なんて、ただの危険だろ」
「うちの教授も言ってたぞ? “キサラギは優秀だが、あれでは現場は任せられない”って」
そこまで言われた瞬間、視界がぐらり揺れた。
胸の奥で何かが焼けるように熱くなる。
俺の努力は、俺の積み上げてきたものは――全部、そんな軽口で切り捨てられるものなのか。
「……言わせとけよ、ハヤト」
テオが俺の腕を掴んだ。その手は震えていたが、それでも必死に止めようとする気持ちは伝わる。
「関わらない方がいいって……向こうは最初から喧嘩売ってきてるんだから」
エマも唇を結び、低く囁く。
「ハヤト、呼吸して。肩に力入りすぎ」
だが、俺の耳にはもう周囲の音が遠く感じられていた。
「ねぇ、キサラギ。君たち三人の“絆”がどうなるか、楽しみなんだよ」
マルクスがさらに追い打ちをかける。
「今年は三年実習。失敗したら即落第の可能性もある。目の前で仲間が落ちていくのを、君はどんな顔で見るんだろうね?」
その時――
頭の奥で、何かが折れた音がした気がした。
「黙れって言ってんだろ!!」
気づけば俺は前に出ていた。
拳が震え、いつでも振り抜ける位置にある。
マルクスの取り巻きがざっと身構え、周囲の学生がざわついた。
殴れば終わる。
こいつを沈められる。
その瞬間の誘惑が、体を支配する。
だが――
「ハヤト!!」
エマの声が、鋭く飛んできた。
次の瞬間、腕を掴まれた。
小さい手なのに、驚くほど強い力だった。
「だめ。ここで殴ったら全部終わる。ハヤトの一年間の努力も、私たち三人の立場も、今日で全部終わる!」
エマの声は震えていた。
怒っているわけじゃない。
怯えているわけでもない。
必死だ。
俺が壊れないように――必死に止めてくれていた。
「……くそ……っ」
拳が震え続けた。
そしてゆっくり、ゆっくり下ろした。
マルクスは面白くなさそうに舌打ちした。
「つまらないな。もう少しで良い絵が撮れたのに」
「最低ね、あなた」
エマが低く呟いた。その声には怒りも侮蔑も含まれていない。ただ、冷えた事実だけを突きつけるような響きだった。
マルクスは肩をすくめ、蛇寮の一団を連れて去っていった。
残されたのは、張り詰めた空気と俺の荒い呼吸だけ。
「ハヤト……大丈夫?」
テオが不安そうに覗き込む。
「……大丈夫じゃねぇよ」
俺は正直に吐き出した。
「……殴るところだった。危なかった」
エマは静かに頷き、俺の肩を軽く叩いた。
「爆発寸前だったのは分かった。でも止まれた。そこが大事なの」
テオも小さく頷く。
「ハヤトは、俺たちを守ろうとしてくれただけだよ。でも……自分を壊してまで守らなくていい」
その言葉に、胸の奥がじわりと熱くなった。
こいつらは弱くなんかない。
一緒に立ってくれる、俺の仲間だ。
「……ありがとな、二人とも」
拳を開くと、手のひらはじっとり汗で濡れていた。
今年は――本当に簡単にはいかない。
だけど。
「絶対に負けねぇからな。あいつにも、俺自身にも」
二人が笑った。
三人の決意は、確かにそこにあった。




