第51話 蛇寮との軋轢
三年生の始業式の朝。校舎のガラスは早春の光を跳ね返し、妙に眩しく感じた。例年より空気が張り詰めているのは、俺自身が三年生になった緊張のせいだけじゃない。
隣を歩くテオが、いつもの調子で鼻歌を歌っている。……緊張していないわけじゃないはずだ。
「テオ、ほんとに進級おめでと。去年の後半、かなりギリギリだったろ」
「う、うん……でもハヤトがずっと一緒にいてくれたから。いやぁ、危なかったけど、なんとか三年だよ!」
明るく笑ってるけど、目の奥にチラッと疲れの影が見える。あいつは無理するタイプだ。心配になる。
講堂へ歩いていく途中、後ろから軽い足音が駆けてきた。
「おはよう、二人とも!」
エマだ。去年から同じ班で実習を乗り切ってきた仲間でもある。白衣に似た上着をきちんと着込み、髪をまとめた姿は、もうすっかり“医療者の顔”になっていた。
「エマも三年生か。……早いよな、本当に」
「そうね。だけど今年は、去年の比じゃなく忙しくなるわよ。三年の実習は過酷だから」
いつもの冷静な口調。けれど、口元にはほんの少しだけ期待の色が浮かんでいる。
講堂に入ると、ざわめきが一気に増した。他寮との軋轢は去年より確実に強くなっている。特に蛇寮――マルクス・ヴェルナーの派閥が陣取る一角は、空気そのものが重い。
始業式終了と同時に、嫌な予感が現実になる。
「やれやれ、アルト。本当に三年に上がれたんだな」
声の主に振り向いた瞬間、背筋が冷えた。
マルクス・ヴェルナー。蛇寮の中心にいる男で、金と権力を背景にこの学園を牛耳る影の王。
周囲には取り巻きが数人。誰もがテオを見る目に、嘲笑が滲む。
「……あ、どうも……」
テオの声が少し震えた。それを聞いた途端、胸の奥で何かがざらっと逆撫でされる。
「去年の実技、爆発させたって聞いたぞ? よくこんなのが三年に上がれたもんだ」
「混ぜ方も分からないんじゃない? 医療者向いてないだろ」
取り巻きたちの嘲笑が広がる。
冗談じゃない。
俺たちはどれだけ必死であいつを支え、あいつ自身がどれだけ努力してきたか。知らない癖に、外面だけで笑ってんじゃねぇ。
テオの肩が震えた。
その瞬間、俺は一歩前に出た。
「根拠のないこと言ってんじゃねぇよ」
声は低かった。怒りを噛み殺している時の声だ。
マルクスはあくびでもするように肩をすくめた。
「根拠? 必要ないだろう。現に結果が物語っている。君たち三人の絆? そんなもの――脆いよ」
こめかみが熱く脈打つ。
俺たちの絆を壊す?
なんでそんなことを嬉々として言えるんだ。
「マルクス、言わせとけって……俺は――」
「テオは黙ってろ」
言い終える前に、俺はテオの前に立っていた。守るとかじゃない。テオを追い詰める言葉を、これ以上聞かせたくなかった。
マルクスがニヤリと笑う。
「ほら、また感情的になる。キサラギ、お前みたいなタイプが一番医療には向かないんだよ」
「……黙れ」
それ以上言えば、本当に殴っていたかもしれない。
俺が前へ踏み出した瞬間――腕を掴む細い手。
「ハヤト、ストップ」
エマだ。
強い力ではない。だけど、確かに俺を引き留める力だった。
「向こうは、あなたがキレるのを待ってるの。ここでやったら全部、向こうのペースになる」
エマの瞳は冷静そのもの。だけど、その奥には、俺以上に怒っている温度が潜んでいた。
「……クソッ」
奥歯を噛み、拳を握り締め、なんとか踏みとどまる。
そんな俺たちを、マルクスは見下ろすように笑った。
「まあ――楽しみにしているよ。君たち三人が、どれほどで崩れるのかをね」
そう言い残し、蛇寮の一団は去っていった。
残された空気だけが、胸に重くのしかかる。
テオがぽつりと呟いた。
「……ごめん、俺のせいで」
「バカ言うな。悪いのは全部向こうだろ」
俺が返すと、エマも小さく頷いた。
「そうよ。テオのせいじゃない。むしろ――今年は私たち三人、もっとしっかり組まなきゃいけないわね」
その言葉に、俺は静かに息を吐いた。
新学期早々、こんな波乱とは。
だけど――絶対に負けない。
「行こうぜ、二人とも。三年生、始まるんだからよ」
俺たちは三人並んで歩き出した。
確かな緊張が、背中を押すように揺れ動いていた。




