第50話 誰も倒れませんように
期末テストが終わった瞬間、全身から力が抜けた。張りつめていたものがほどけていく感覚は、いつ味わっても悪くない。
夕食を終えた獅子寮の談話室には、俺たち三人しかいないはずなのに、いつもより少しだけ賑やかに感じた。大きなテーブルの上には、買い出し組のテオが張り切って並べた菓子の山が広がっている。
「やったぁぁぁ!! 終わった! 俺、生きてる! ちゃんと生きてるよハヤト!!」
テオが勢いのまま飛びついてきて、俺の肩をがっしり掴んだ。相変わらず距離感という言葉を知らないらしい。
「はいはい、生きてるのは見ればわかるって……って、おいテオ、口の中それ何個入ってるんだよ」
「ん? チョコ。六個くらい?」
「絶対噛めてないだろ……ほら、飲み込みながら喋るなって」
口を膨らませすぎて頬がぷくぷくしている。よくこれで三年へ進級できたもんだと、半ば呆れつつも、内心では安心していた。
テオが一年の頃は「本当に続けられるのか?」と心配で、夜中に一人で勉強を見たこともある。二年の最後に、こうして嬉しそうに笑っている姿を見られるだけで、胸の奥が温かくなる。
「ハヤト! 俺さ! ちゃんと平均点も越えててさ! こんなの初めてで! うわああ、やばい、なんか泣ける……」
「泣くほどかそれ? まぁ……よく頑張ったな、テオ。ほんとに」
自然と笑いがこぼれた。
――誰も倒れずに、ちゃんと全員ここにいる。
その事実が、何より嬉しかった。
「二人とも、少し落ち着いて」
そっと椅子を引く音とともに、エマが戻ってきた。紅茶の香りがふわっと広がる。マグカップをテーブルに置くと、エマは俺たちの向かいに腰を下ろし、淡々と言った。
「はい、ハヤト。はい、テオ。お祝いはいいけれど、現実逃避はほどほどにね」
「現実逃避って……今日はいいだろ?」
「今日だけはいいだろエマ……俺、もうしばらく医学書の文字見たくない……」
俺とテオが同時に肩を落とすと、エマは呆れたようにため息をつき、カバンから何かを取り出した。
見慣れた生徒手帳。それに……学校案内の冊子?
「その反応、完全に予想通り。ほら」
ぺら、とページが開かれる。
そこには――三年生の時間割と、実習計画表。
「……え?」
「三年生になると、第一クォーターから実地訓練が始まるの。医療現場での一次対応。救命処置。心疾患患者の搬送訓練。全部必修」
「ちょっ……ちょっと待て。そんなの、まだ俺たち……」
「テオ、あなたは特に心疾患関連の薬剤の配置と取り扱い、しっかり覚えないと駄目よ。二年の時に私たち、救護室で似たような症例に遭遇したでしょ? あの時の判断、覚えてる?」
「うっ……あれは……えっと……」
テオの目が泳ぎ始めた。
エマは容赦ない。けれど、その厳しさが何度も誰かの命を救ってきたのを俺は知っている。
「ハヤトにもあるわよ。第二特殊免許の訓練。救命処置に特化した実践型。あなたは筆記も実技も上位で通ってるから、絶対に逃げられないわね」
「…………待ってくれエマ。俺、今日で二年生終わったんだよな?」
「終わったわよ。だから次が来るの」
「いや、そんな余韻を味わわせない感じ?」
「医療職に余韻は甘えよ」
テオが「ひぃ……」と震える横で、俺も思わず額を押さえた。
現実、重すぎる。
「え、えっと……エマ? 春休みは、その……多少は休め……」
「春休みは三人で勉強会よ。決定事項」
「「ぎゃあああああああああ!!!」」
俺とテオ、完璧にハモった。
談話室に響き渡る絶叫。
この寮でこんな悲鳴上がったの、俺たちが倒れそうになった時以来じゃないか……?
「だってね、あなたたち。三年生の実地訓練って、本当に大変なのよ。一次対応の優先順位、薬剤の禁忌、患者の容態急変……判断が遅れたら、取り返しがつかないこともある。私は薬理で支援できるけど、実際に“処置する側”はハヤトでしょう?」
「……まぁ、そう、だけど」
わかっている。
俺たちが進むのは、誰かの命を預かる道だ。
その責任を、甘く見ちゃいけない。
でも。
「テオ。あなたも例外じゃないわよ。三年になるってことは、一次救命の場に立ち会うってこと。救護班の呼び出しだって普通にあるんだから」
「えぇえぇえぇぇ……俺、食堂でご飯食べてる時間なくなる……?」
「ないわね」
「エマ……ついに俺の楽しみ全部奪いに来た……?」
「食べるのは止めないわ。でも勉強はするの」
「ハヤトぉ! 助けて!!」
「いや俺も当事者なんだよ……!」
テオが縋りついてくるのを、なんとか振りほどきつつ、苦笑がこぼれた。
ため息半分、覚悟半分。
春休みくらい息抜きしたい気持ちはある。
けど、たぶん――エマの言ってることは全部正しい。
「……まぁ、勉強会なら、いいか。三人でやれば……なんとかなるだろ」
言うと、エマの表情が少し柔らかくなった。
「ええ。三人でやれば、ね。ハヤトの理解力、テオの発想力、私の知識。どれが欠けても不安定になる。でも三つが揃えば、だいたいのことは乗り越えられるわ」
「エマ……なんか今日優しくない?」
「優しいわよ、いつも。あなたたちが無茶をしなければ」
つまり無茶してるから普段は厳しいわけだ。納得だ。
テオはまだ放心したまま、菓子袋を抱えしめている。
「俺……三年生になれるんだよな……?」
「なれるよ。なれたんだよ、テオ」
「……そっか……俺、ちゃんとここにいるんだ……」
その一言が、なんだか胸に染みた。
テストで倒れていたかもしれない。勉強に押しつぶされていたかもしれない。実習のストレスで泣きたくなるような夜も、三人で支え合って乗り越えてきた。
だから。
「――来年も、誰も倒れるなよ」
思わず口にすると、エマが静かに微笑んだ。
「倒れさせないわ。三人で、ね」
「うん。俺、がんばる!」
テオが元気よく手を挙げる。
その勢いでチョコレートを喉に詰まらせかけて、俺が慌てて背中を叩く羽目になったのは、言うまでもない。
「……だから落ち着いて食えって言っただろ」
「ごめん……でも、嬉しくて」
テオは照れたように笑った。
その笑顔を見て、ようやく実感が湧いた。
二年生、終わったんだ。
三人で、全員無事に。
談話室の明かりはやわらかく、窓の外には春の気配が近づいている。
来年はもっと大変になるだろう。それでも――
俺たちなら、きっと大丈夫だ。
どれだけ忙しくても、怖くても、不安でも。
この三人なら。
「……じゃ、三年生に向けて。お疲れ」
カップを軽く持ち上げると、エマとテオも同じように手を伸ばした。
「お疲れ、ハヤト」「おつかれさまー!」
軽く触れ合ったカップの音が、妙に心地よかった。
――俺たちの三年目も、どうか誰も倒れませんように。




