第5話 倒れないでくれ!初日から濃すぎる仲間が出来ました
マルクスとの最悪な出会いから、ほんの数分しか経っていないのに、俺の心はすでにぐったりと疲れ果てていた。初対面で容赦なく能力や出自を値踏みされるあの感覚は、医療の世界では珍しくないと頭ではわかっている。それでも、胸の奥をきつくつねられるような痛みが、どうしても消えてくれない。
静かに過ごしたい。
せめて、学校に着くまでは。
そう願って、俺は座席に深く腰を沈めた。背もたれに体を預け、窓の外を流れる景色に目をやる。特急列車は穏やかな速度で森の間を滑るように進んでいて、車内は控えめな静けさに包まれていた。乗客たちはそれぞれの本や端末に集中し、時折ページをめくる音やキーを叩く音だけが小さく響く。そんな空気が心地よくて、ようやく少しだけ息をつけたと思った、その瞬間だった。
車内の静寂を切り裂くように、勢いのいい足音が響き渡った。まるで大きな犬が全力で駆け回っているような、荒々しい響きが床を伝ってくる。俺は思わず顔を上げ、ドアの方を見た。
ガラッと勢いよくドアが開け放たれ、赤毛の青年が乱暴に髪をかき上げながら飛び込んできた。頬はリスのようにぱんぱんと膨らんでいて、制服は学校の規定をギリギリで攻めた着崩し方だ。そして、ふわりと甘ったるい香りが漂ってくる。
チョコレートの匂いだ。
いや、この青年自身がまるで菓子工場のようだった。
「ここ空いてる!? 他の席どこもパンパンだ! てか腹減って死にそう!」
突然の声に、俺は少し戸惑いながら答えた。
「……空いてるけど。あの、その口……何が入ってるんだ?」
青年は俺の質問をまるで聞いていないかのように、目の前の座席に重い音を立てて腰を下ろした。座面が深く沈み込み、内部のバネが悲鳴を上げているような気がした。
「俺はテオ! テオ・アルト! よろしくな!! 口の中は駅弁の残りだ!」
頬をぱんぱんに膨らませたまま自己紹介をするから、どの単語も少しもごもごとくぐもっている。それでも、明るい声と人なつっこい笑顔が、なんだか憎めなかった。
「……よろしく。俺はハヤト・キサラギ」
名前を告げた瞬間、テオの眉がぴくりと跳ね上がった。
「えっ、お前……支援金で入ったんだろ!? すげーじゃん! 英雄級だぜ、お前!」
「は……?」
思わず息を飲み込んで、喉が変な音を立てた。
支援金制度。
確かに、俺はその枠で入学が決まった。でも「英雄級」なんて言われる覚えは毛頭ない。ただ、家が金銭的に苦しくて、奨学金のような形で支援を受けているだけだ。それをまるで特別な偉業のように言われると、逆に居心地が悪くなる。
「いやいや、違うよ。俺は別に……大した人間じゃない。家がちょっと、金銭的に厳しくて。だから支援金を申請して……」
「でも通ったんだろ? あれって簡単じゃねぇって聞くぜ? 相当優秀なのか、何か期待されてるのか……」
「だから、違うって」
声を強くしたつもりだったのに、情けなく震えてしまった。
支援金を申請するまでの日々を思い出すと、今でも胸のあたりがぞわっと冷える。何度も自分の価値を疑い、夜通し悩んだ。医療の道に進む資格が自分にあるのか。家族に負担をかけてまで、ここにいる意味があるのか。そんな葛藤が、頭の隅にずっと残っている。
「俺、すごくなんてない。ただの医療学生だ。本当に」
吐き出した言葉は小さくて、自分でも聞き取りづらいほどだった。
けれどテオは、俺の否定などまるで気にも留めていない様子で、にやりと笑った。
「そうかぁ? まあ、俺はすげぇと思ったけどな! 俺なんか、お菓子のことしか頭にねぇし!」
「いや、それはそれで別の問題があるような……」
苦笑いが漏れたその時、ちょうど車内販売のワゴンが通路を進んできた。
「新入生ちゃん、お菓子いかが?」
甘いキャラメルの香りがふわりと漂い、テオの視線が一瞬で釘付けになる。目が輝き、まるで獲物を見つけた子供のようだった。
次の瞬間、テオは勢いよく身を乗り出した。
「せ、全部ください!!」
「全部!? あなた胃袋どうなってるの!?」
車内販売の女性は呆れ顔で笑いながらも、袋をどんどん積み上げていく。俺は横でそれを見ていて、自分の支援金の袋をちらりと眺めた。指先が少し引きつる。浪費できる立場じゃない。それでも、テオが子供のようにはしゃぐ姿がどうしようもなくおかしくて、つい小さなチョコバーを一つだけ買ってしまった。
「見てくれハヤト! 俺、今日から“この世の菓子全部食う男”になる!」
「やめとけ。医療学生が真っ先に倒れるぞ」
「大丈夫! 甘味だけで生きられるように進化してんだ!」
テオの発言は九割方意味不明だったが、その勢いと無邪気さに、俺は自然と笑ってしまった。
しばらくして、俺たちのコンパートメントはすっかりお菓子で埋め尽くされた戦場のようになった。袋が次々と開けられ、キャラメルの甘い香りが車内に充満する。テオが「うめぇ!」と大声で叫ぶたび、俺の前には車内販売の女性からもらったおまけのシールやカードが山のように積み上がっていった。
「これレアじゃん! 歴代校長シリーズだぞ! ほら見ろ、この人の髭、クッキーみたいだな!」
「言うな。絶対怒られるから」
俺がツッコミを入れると、テオはますます調子に乗って笑う。その明るさに、俺の心も少しずつ解けていくのがわかった。
そんな時、再びドアが勢いよく開いた。
長い髪を高く結んだ少女が、怒りを全身にまとって飛び込んできた。
「アンタたち!! さっきからバリバリうるさいのよ!! って何これ!? キャラメルがスカートにまでくっついてるじゃない!!」
少女の声に込められた怒りが、空気をびりびりと震わせる。
「エマ〜、腹が減っては戦はできぬって言うだろ? 俺は今日からの7年のために蓄えて――」
「蓄えるな!! あたしが買った分まで食うんじゃない!! 返金しなさいよ、食いしん坊ロボ!!」
「ロボって言うな! 俺は人工甘味料で動く生物だ!」
「それロボでしょ!!」
二人の口喧嘩は、花火のように次々と弾けていく。テオののん気な反論と、少女の鋭いツッコミが交互に飛び交い、車内が一気に賑やかになった。
俺はそのやり取りを横で見ながら、ふと胸の奥が温かくなるのを感じた。
さっきまで、支援金のことを考えるたび胸がざわついていた。マルクスの冷たい視線が頭にこびりついて離れない。「選ばれた理由」を自分で説明できない苦しさも、ずっと背中にのしかかっていた。
けれど、この二人の掛け合いは、そんな重い感情をまるで魔法のように上書きしてくれる。テオの底抜けの明るさと、少女の憤りながらもどこか優しさを感じさせる口調。どちらも、俺の心に小さな灯りをともしてくれるようだった。
「……なんか、こういうの、悪くないな」
つぶやいた言葉に反応したのか、テオと少女が同時にこちらを振り返った。
「あ……」
少女が頬を少し赤く染め、気まずそうに視線を逸らしながら口を開いた。
「……あたし、エマ。エマ・リンデン。これから7年間同級生でしょ。よろしく。
……それと、このバカと仲良くしてくれてありがとう」
「おいエマ! バカは撤回しろ!」
「誰がバカか一番わかってるでしょ!」
また始まった口喧嘩に、俺は小さく笑った。
でも、その笑顔の奥で、俺はゆっくりと深呼吸をした。
胸の奥に刺さっていた棘が、少しずつ溶けていくような感覚があった。
支援金で見られる不安。
医療の道に進む覚悟の重さ。
未来への焦り。
それらが、ほんの少しだけ軽くなる。
列車は深い森の中を進んでいく。木々の間から差し込む陽光が、窓ガラスに柔らかく反射していた。三人を乗せて、ルミエールで始まる新しい未来へと向かって。
床には、テオの食べこぼしが星屑のように散らばっていた。
なぜか、それさえ心地よく、温かく感じられた。




