第49話 誰も倒れないでくれ!〜3人で試練を乗り越える
夜が明けた。
朝の空気は、いつもより冷たく澄んでいるように感じた。
それは、俺の心がまだ冷静さを取り戻していないからかもしれない。
布団から体を起こすと、背筋に少し緊張が走る。胸の奥に、昨夜の悪夢の残像がまだひっかかっていた。
――テオが退学になる夢。
思い出すだけで、胸がぎゅっと締めつけられる。
けれど、今はもう夢ではない。現実に、追試が待っている。
軽く手を叩き、深呼吸する。
「よし……俺たちなら、絶対に乗り越えられる」
心の中で自分を奮い立たせた。
◆ ◆ ◆
寮のロビーで待ち合わせると、テオは顔を引きつらせながらも、目にわずかな覚悟の色を宿していた。
エマは落ち着いた表情で、テオの肩に軽く手を置き、励ましている。
「大丈夫。昨日までの努力、無駄にならないから」
その言葉は理屈ではなく、魂に響く言葉だった。
俺は二人の姿を見て、胸の奥でまたぐっと何かが込み上げる。
――守らなきゃ。
この二人を、この瞬間を、絶対に守らなきゃ。
教室に入ると、試験監督の先生が静かに立っていた。
机に広げられた問題用紙が、余計に俺たちの緊張感を煽る。
「……よし、始めるぞ」
合図とともに、教室は静寂に包まれた。
鉛筆の音、ページをめくる音、呼吸だけが響く。
◆ ◆ ◆
最初の数問は比較的順調だった。
俺はひとつひとつ、確実に問題を潰していく。
けれど、視線の端にテオを見ると、彼は眉を寄せ、必死に頭を抱えていた。
――ああ、昨日の勉強地獄の成果を見せる時だ。
声をかけるタイミングを探しながらも、俺は自分の解答に集中する。
中盤、心不全の症例問題が出た。
血行動態を読み、薬理学的対応を示す。
これを間違えれば、追試どころか、卒業に大きな影響が出る。
テオが手を止め、頭を抱え込んだ。
彼の心拍数が上がるのが見て取れる。
エマが小声でアドバイスをしても、テオは混乱して鉛筆を置く。
胸が張り裂けそうになった。
――夢の光景がフラッシュバックする。
事務局前、退学通知書、遠ざかるテオの背中。
「テオ、深呼吸。ゆっくりでいい」
思わず声が出ていた。周囲には聞こえないように、しかし力強く。
テオは小さく頷き、目を閉じて息を整えた。
俺はそっと背中を叩く。
「大丈夫だ。昨日の努力は嘘じゃない」
◆ ◆ ◆
試験は続く。
次の症例は循環器の急性発作。
俺は問題を読み、必要な薬を思い浮かべ、計算を確認する。
心拍出量、血圧、薬効、併用注意……すべてを一つずつ書き込む。
テオもまた、鉛筆を握り直した。
目は真剣そのもので、昨日までのミスや珍回答が嘘のようだ。
彼の手元のノートは赤ペンだらけで、必死の跡が残っている。
エマは静かに彼を見守る。
時折、ささやくように指示を出すが、あくまで自分で考えさせる形だ。
俺は二人の背中を見ながら、心の中で繰り返す。
――誰も倒れないでくれ。
この瞬間、誰一人欠けてほしくない。
そして、試験時間の半分が過ぎた頃、奇跡のような場面があった。
テオが、昨日何度も間違えた公式を正確に書き込んだのだ。
その瞬間、彼の表情がぱっと明るくなる。
小さく拳を握り、そしてこちらを見る。
「ハヤト……できた……!」
「そうだ、やったな!」
俺も思わず拳を握り返した。
教室内では静かにしていなければならないが、心の中で歓声をあげた。
◆ ◆ ◆
試験終了のベルが鳴る。
教室の空気が、一気に解放される。
俺は深く息を吐き、テオと目を合わせた。
彼の顔はまだ緊張で強張っているが、どこか誇らしげだ。
エマも微笑む。
「よくやったわね、二人とも」
その瞬間、昨日の悪夢も、追試前の不安も、一気に遠ざかるように感じた。
教室を出ると、掲示板に結果が貼り出されていた。
テオと俺とエマ、三人並んで確認する。
テオの名前に赤字はない。
追試合格。退学の文字は、どこにもない。
胸の奥が熱くなる。思わず拳を握りしめた。
「やった……!」
「本当にやったのね……」
エマが小さく呟き、テオの肩を叩く。
テオは照れ臭そうに、しかし確かな笑顔で言った。
「エレナが応援に来てくれたからだよ。俺、絶対諦めなかった」
その瞬間、昨日の夜のエレナの笑顔と声が脳裏に浮かぶ。
――ありがとう、エレナ。
俺たちは、全員そろって乗り越えた。
◆ ◆ ◆
帰り道。三人で寮へ向かいながら、自然と会話が弾む。
昨日までの緊張が嘘のように、笑い声が響く。
「次は、ちゃんと余裕を持って試験を迎えような」
俺は二人に言う。
「……そうだな」
テオは笑い、少し誇らしげに肩をすくめた。
「あなたたちなら、絶対に誰も倒れない」
エマの言葉に、俺も小さく頷く。
――本当に、誰も倒れなかった。
そして、これからも三人でなら、どんな困難も乗り越えられる。
胸の奥に、温かく、静かな誇りが広がった。
誰も倒れないでくれ――その願いは、確かに叶ったのだ。




