第48話 誰も倒れないでくれ!〜小さな嵐〜
追試前日の夜は、どうしてこうも空気が重くなるんだろう。
寮の自習室はいつもは誰かしらいるのに、今日は俺たち三人の気配だけが、広い空間に沈んでいた。
蛍光灯の白い光が、テーブルの上に広げられた参考書のページを冷たく照らし、紙が擦れる音すらやけに大きく聞こえる。
テオは珍しく黙って問題集に目を落とし、エマは赤ペンを持ったまま黙々と解説を書き込んでいる。
俺もノートを広げて、次に叩き込む範囲の準備をしながら、頭の片隅ではあの悪夢が何度も再生されていた。
――退学処分。
――テオの背中。
――届かなかった手。
ただの夢だと切り捨てられればいい。でも、病気は容赦なく人を壊すし、学業不振は現実に人を追い詰める。俺は医療を学んでいるからこそ、その“現実”を知っていた。
だからこそ、あの夢が胸にこびりついて離れなかった。
「テオ、刺激伝導路をもう一回やるぞ」
少し声が強く出たのは、自分でも分かった。
悪夢を振り払うように、必要以上に真剣になっていたのかもしれない。
テオはビクッと肩を揺らしつつ、語尾に力を入れて答える。
「洞房結節、房室結節、ヒス束、右脚・左脚、プルキンエ繊維!!」
「声がデカいって」
「いや、覚えたから言いたくて……」
その必死さに、少し笑いそうになったけれど、笑う余裕は正直あまりなかった。
エマがため息をつきながらも、ほんの一瞬だけ口元を緩めた。
「進歩したわね、テオ。昨日のあなたは“洞房結成”とか言ってたもの」
「言ってたな……」
俺も思い出して頭を抱えたくなりながら、次のページをめくった。
そのとき――。
コンコン、と控えめなノック。
こんな時間に誰だ?
そう思った瞬間、ドアが勢いよく開いた。
「ハヤトにぃにーーっ!!」
自習室の静けさを容赦なく切り裂く声が響き、反射的に顔を上げる。
「……エレナ!?どうしたんだよ、こんな時間に」
もう息が上がっていて、髪も少し乱れたままだ。
制服のリボンも曲がっているのに気づいた。
俺の胸にしがみついてきたところまでは、いつものエレナだった。
だが、その次の言葉は違った。
「……なんで返事してくれなかったの?」
声の色が一瞬で変わる。
冷たいわけじゃない。ただ、拗ねている。
少し尖ったその声に、俺の胸の奥がチクリと痛んだ。
「いや……気づかなかっただけでさ。今はテオの追試の準備が――」
「忙しいのは知ってるよ。でも既読くらいつけてって言ったよね?」
「……っ」
痛いところを突かれると、言葉が詰まる。
テオが小声で「ひえっ」とか言ってるのが聞こえたが、エマに足を踏まれて黙った。
「ごめん。あとで返そうと思ってたんだよ」
「……ならいいよ。許す」
許すんだな……。
ただ、その言い方が妙に大人っぽくて、胸がざわつく。
◆ ◆ ◆
エレナは俺の隣に座ると、テオの参考書を覗き込んだ。
「テオにぃに、明日追試なんだよね?」
「う、うん……まあね。その、できれば触れないで欲しいというか……」
「落ちたら退学でしょ?」
「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁ!!言ったぁぁ!!」
テオが机に突っ伏した。
エマは慌ててエレナの肩を抱いた。
「エレナ、もっと言い方ってものが……」
「え、あ、ごめん。でも事実じゃない?」
「事実だけども!」
それでも、エレナはすぐにテオを見つめ直し、柔らかく微笑んだ。
「テオにぃに。迷惑かけたくないって言って、夜遅くまで問題集やってたでしょ?
あれ、ちゃんと覚えてないとできないんだよ。明日も、たぶん大丈夫だよ」
その言葉に、テオの肩がゆっくり上がり、上を向いた。
「エレナ……お前……優しいな……」
「当然でしょ。家族なんだから」
その一言は、夜の冷たい空気をあたためるみたいに広がった。
◆ ◆ ◆
しばらくエレナは俺たちの勉強を見ていたが、途中から俺の袖をくいっと引っ張り始めた。
「……ねえ、ハヤトにぃに」
「ん?」
「テオにぃにばっかり見てる。……つまんない」
くると思ってなかった方向からの攻撃に、思わず固まった。
「別に……そういうんじゃないよ。今はテオの追試が近いから――」
「分かってるよ。分かってるけど……なんか、ちょっとつまんない」
言いながら視線を逸らすその仕草は、拗ねているけど、本気で怒っているわけではなかった。
ただ、俺を気にしてくれているその気持ちに、胸が温かくなる。
「……ごめん」
「ふん。
でも、がんばってるのも知ってるから特別に許す」
この“特別に”の言い方が、また可愛い。
テオがぼそっと「これが恋人の貫禄か……」と呟き、エマが「あなたは余計なこと言わない」と言って教科書で軽く殴った。
◆ ◆ ◆
エレナは俺の手元のメモや、テオの筆記の様子をしばらく眺めていた。
時折、俺の横顔をちらっと見ては、また目を逸らす。
その落ち着かない様子がなんとなく気になった。
エレナの指先が、俺の手首に触れたときだった。
「……ハヤトにぃに」
「ん?」
「今日、ちょっと変だったよ」
「……俺が?」
エレナは頷く。
「朝から顔が暗かった。
テオにぃにを見てても、どこか遠いところ考えてるみたいで。
……なんか、ずっと心配だった」
胸の奥がぎゅっと掴まれるような感覚になった。
「……夢を見たんだよ。すごく嫌なやつ」
「……退学の夢?」
ズバッと言い当てられて、言葉が止まった。
「なんで分かるんだよ」
「だって、ハヤトにぃにってすぐ分かりやすいもん。
……いつもは誰かが困ってても落ち着いてるのに、今日はテオにぃにがちょっと間違えただけで変に焦ってた。
見てたよ、ずっと」
「……そっか」
自分で思っている以上に、態度に出ていたらしい。
責任感が強すぎると言われれば、否定できなかった。
エレナはそっと俺の胸に額を寄せ、声を低くして言った。
「ハヤトにぃにが倒れたら、私が一番困るの。
……だから、がんばりすぎないで」
その小さな体温が、心臓の奥にまで染み込んでくるようだった。
「分かったよ。……ありがとう」
「うん」
小さく返事をしたあと、エレナは立ち上がり、テオとエマに向き直った。
「じゃあ三人とも!明日、絶対そろって学校に来ること!
誰か倒れたらぜったい許さないからね!!」
小柄なのに、不思議とその言葉には力があった。
まるでこの場一番の年長者みたいに。
そして、勢いよく手を振って、自習室を後にした。
◆ ◆ ◆
エレナが去ったあと、自習室は再び静かになったが、その静けさはもう重くなかった。
テオは涙ぐみながらノートを抱え、エマは微笑みながら席に戻った。
俺は深く息を吸って、心の中で呟いた。
――誰も倒れないでくれ。
明日、全員そろって、ちゃんと乗り越えるんだ。
エレナのおかげで、その願いは迷いなく胸の中心に据えられていた。




