第47話 誰も倒れないでくれ!
――暗い廊下を走っていた。
靴音だけがやけに響く。息が苦しい。胸が焼けるみたいに熱い。
“あれ”は夢だと分かっているはずなのに、走る足は止まらなかった。
廊下の先、事務局の扉が少し開いていて、中から人の話し声が漏れていた。
「……学業不振。退学処分とする」
冷たい声。紙をめくる音。
俺の背筋に、氷を押し付けられたみたいな寒気が走った。
「ま、待ってください!テオは、まだ……!」
声を出しているのは、俺だった。涙で視界がにじんで前が見えない。情けないくらい必死で、喉が裂けそうだった。
扉の隙間から、背中が見えた。
――テオだ。
書類を胸に抱え、無理に笑っている。
「俺、やっぱ向いてなかったみたいだな」
そう言ってるような顔で。
「ごめん、ハヤト。俺、がんばったんだけど……どうしても……」
「やめろ!まだ終わってない、だから――!」
俺は走った。走って走って、それなのに、テオの背中は一歩ごとに遠ざかっていく。
手を伸ばしても届かない。声を出しても届かない。
遠ざかるテオの肩が震えた。
その瞬間、書類の端に目がいった。
“退学処分通知書”
胸が裂けたような痛みで、呼吸が止まった。
テオは扉の向こうへ消える。
ドアが閉まる瞬間、俺は叫んだ。
「頼むから――誰も倒れないでくれ!!」
――ドンッ!
衝撃で目が覚めた。
息は荒く、額は汗で濡れている。喉はカラカラで、胸が締めつけられたままだった。
夢なのに、痛みが生々しく残っていた。
「……最悪だ」
枕元のスマホを見ると、まだ午前4時。
こんな時間に起きた理由が、よりにもよって悪夢って……。
胸に手を当てて、ゆっくり深呼吸した。
絶対に、あんな未来はさせない。
◆ ◆ ◆
試験当日。
テオはいつも通り朝から元気だったが、俺は笑えていなかった。
テオの顔を見るだけで悪夢の残像がちらつく。
試験は案の定、テオにとって地獄だった。
終了後、テオの顔は真っ白で、魂を落としたみたいに机に突っ伏している。
昼過ぎ、結果が貼り出され――追試。
悪夢の影が、現実に手を伸ばしてきたような気がした。
だが、ここからが本番だ。
◆ ◆ ◆
◆ テオの“勉強地獄”が始まった
「よしテオ。病態生理の“基礎の基礎”からだ。今日は徹底的にやる」
「う……うん……ハヤト、今日はなんだか怖い……」
「俺は真剣なんだよ」
エマも横で腕を組み、完全に“教官モード”だった。
「テオ、あなた今日で覚えなかったら許さないわよ?心臓の刺激伝導路、昨日教えたじゃない」
「えーと、えーと……洞房結節……房室……なんとか……」
「なんとかじゃないわよ!!」
エマの一喝でテオが飛び上がる。
俺は机に参考書を広げ、重要ポイントをまとめたノートを渡した。
「まずは循環器の基礎。ここが崩れてると全部がズレる。いいな?」
「……っ!がんばる!!」
そこからのテオは、半泣きで、でも本気だった。
・洞房結節を「どうぼう…結成?」と読む → エマが即ツッコミ
・「心房細動って、心臓が怖くて震えるやつ?」 → 俺が頭を抱える
・心拍出量の計算で「心臓が興奮したら多くなるよね!」 → 理屈は間違ってないが語彙がやばい
・血管抵抗の公式を「とりあえず丸暗記!」 → 逆に覚えきれず泥沼へ
それでも、テオは逃げなかった。
何度も、何度も、同じところを覚え直し、時には頭を抱えて机に突っ伏し……。
「うあああぁぁぁぁ!!俺の脳みそが……沸騰しそう……!」
「沸騰する前に覚えろ!」
「ひぃ!!ハヤトが鬼になってる!!」
「当たり前だ。退学なんてさせねぇよ」
言った瞬間、自分が本音をむき出しにしていることに気づいた。
テオが少しだけ目を丸くした。
「……ハヤト……ありがとな」
その一言で、胸がぐっと熱くなった。
夢の中の恐怖が、ほんの少し薄れていく。
◆ ◆ ◆
夜になっても勉強は続いた。
「テオ、心拍出量の公式」
「一回拍出量 × 心拍数!!」
「よし、正解!」
「や、やったぁぁ……!」
エマも思わず微笑む。
「成長してるわよ、テオ。……信じられないけど」
「ひどい!!でも嬉しい!!」
追試前の勉強地獄は、テオにとってまさに闘いだった。
だけど、それは俺にとっても同じだった。
――絶対に悪夢を現実にしない。
三人で夜のファミレスのような静かな寮の自習室で、ひたすら勉強に向き合っていた。
◆ ◆ ◆
追試まで、あと一日。
テオはボロボロになりながらも、着実に覚え始めていた。
俺はその姿を見ながら、胸の奥でそっと願う。
頼むから――誰も倒れないでくれ。
あの夢だけは、絶対に現実にしたくない。




