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第42話 元気を出して

朝の病棟は静かだった。消毒液の匂いと、点滴の機械が刻む規則正しい電子音。それらはいつものはずなのに、今日はどうしても胸の奥にざらつく不安を残していた。


 昨日の帰り道、エレナは本当に嬉しそうに笑っていた。店先で無邪気に迷って、アイスを落としそうになって、慌てて手を握って――その全部が宝物みたいな時間だった。

 だからこそ、朝の看護師さんの一言が、胸に冷たいものを落とした。


「エレナちゃん、今日は少し部屋に閉じこもっていますね。お返事も弱くて……」


 その瞬間、嫌な予感が背筋を走った。

 走って病室へ向かう足が止まらない。


 そして――扉に貼られた紙を見た。


『面会謝絶』


 心臓が嫌な音を立てた気がした。


「……どういうことだよ」


 誰に向けたでもない声が漏れる。それを振り払うように、俺は扉をノックした。


「エレナ? 俺だ。入ってもいいか?」


 少しの沈黙ののち、扉越しに聞こえたのは、昨日の柔らかい声とはまるで違う音だった。


「……来ないで。今日は……無理なの」


 その弱さに、言葉の端に潜む“拒絶”に、胸の奥がずきっと痛む。


 どうして――昨日あんなに笑っていたのに。


「エレナ、俺は帰らない。話せなくても、そばにいるだけでいい」


「……やめて。お願い……放っておいて」


 “放っておいて”。

 エレナが俺にそれを言うのは、相当追い詰められている時だけだ。


 扉にもたれ、俺は深く息を吸った。

 あの子は強く見えるけど、本当は誰より繊細で、優しくて、ちょっとしたことで全部抱え込んでしまう。孤児院でずっと一人で耐えてきた癖が、まだ抜けないままなのだ。


「エレナ……何があったんだ?」


 問いかける声が少し震えた。情けない。でも、抑えられない。

 すると、扉の向こうで小さく息を吸う音が聞こえた。


「……昨日ね。にぃにと買い物できて……すごく楽しかったの。夢みたいに」


 声は細く、今にも途切れそうだった。


「でも、病室に戻ったら……思い出しちゃったの。私……病気になった時のこと……全部」


 胸が冷たくなった。


「思い出した……?」


「うん……。聞いてほしいの。ずっと言えなかったから。にぃににだけは……言いたいの」


「もちろんだ」


 扉の前で膝をつく。

 この距離でなければ気づけない、小さな震えが扉越しに伝わってくる気がした。


「私、生まれた時には……もうパパもママもいなかったの。事故で……あっという間に」


 淡々としているのに、言葉が痛かった。


「叔母さんに引き取られたけど……あの人、いつも怒ってた。私が泣いただけで怒鳴られて……叩かれて……。『なんで生まれてきたの』『役に立たない子』って……」


 心臓を掴まれたような痛みが走る。

 エレナが普段みせる無邪気さは、ただの性格じゃない。

 あの子が“生きるために身につけた術”だったんだ。


「そんな生活の時に……胸が苦しくなって倒れたのが……病気の始まりだったの。でも叔母さんは……『どうせ治らない』『お金のムダ』って……」


 言葉を重ねるごとに、俺の中で怒りが沸騰していった。

 あの子がどれだけ苦しんでいたか想像するだけで、握った拳が震えそうになる。


 でも、それを外に出すわけにはいかない。

 俺は医者を目指す者だ。感情より、まずエレナの心を守らなきゃいけない。


「施設の人が病院に連れて行ってくれて……やっと助かった。でもね、その時から……ずっと思ってたの。

 “誰にも迷惑かけちゃいけない”って」


 エレナの声は、もう泣き声に近かった。


「昨日みたいに楽しい時間があると……また失っちゃうんじゃないかって……怖かったの。にぃにの時間を奪ってるんじゃないかって……もっと怖くなったの」


 ――なんでだ。


 どうしてそんなふうに思わせてしまったんだ。


 エレナが不安に押しつぶされてるのに、俺は気づかなかった。

 昨日の楽しそうな笑顔の裏に、こんな重い影があったのに。


 扉の前に座っていた身体が自然と動いた。

 気づいた時には、ドアノブに手をかけていた。


 迷う理由なんてなかった。


 俺はゆっくり扉を開けた。


「っ……にぃに……?」


 ベッドの上、毛布を抱えたエレナが、驚いた顔で俺を見た。


「面会謝絶でも、関係ない」


 部屋に入り、エレナのそばへ歩み寄る。

 その顔は泣き腫らしていて、目の下は赤く、手の震えも止まっていない。


「抱きしめても、いいか?」


 問いかけると、エレナの目からぽとりと涙が落ちた。

 次の瞬間、彼女は小さく首を縦に振った。


 そっと彼女を抱きしめると、華奢な身体が腕の中で震えた。

 思った以上に軽くて、壊れてしまいそうで、胸が締めつけられた。


「にぃに……ごめん……ね……。迷惑、いっぱいで……」


「迷惑なんかじゃない。エレナを迷惑だと思ったこと、一度もない」


 背中をさすりながら、言葉を選ぶ。

 慰めじゃなく、誓いになるように。


「エレナ。お前がどんな過去を持ってても、俺は逃げない。

 医者になるって決めたのは……お前の命を守りたいからだ」


 腕の中でエレナが息をのむ気配がした。


「俺は必ず医者になる。どれだけ時間がかかっても、お前の心臓を治す。

 だから、一人で抱え込むな。全部、俺に言っていい」


 エレナが胸に顔を埋めた。


「……にぃに……ほんとに……離れない……?

 私、こんなに弱いのに……?」


「弱くなんかない。怖い思いをしてきただけだ。

 でも、もう一人じゃない。俺がいる」


 その瞬間、エレナの指が俺の服をぎゅっと掴んだ。

 泣きじゃくる声が胸に染み込んでいく。


「にぃに……ありがとう……。私……もう少し、頑張ってみる……」


「うん。無理しなくていい。でも、一人きりにはしない」


 エレナは顔をあげ、涙の跡だらけの目でまっすぐ俺を見た。


「……にぃにの言葉……ほんとに、あったかい……」


 その一言で、胸の奥にあった怒りも不安も、全部溶けていった。


「これからも、何度でも言うよ。

 俺はお前を守る。お前の未来は、もう一人じゃない」


 エレナは微笑んだ。泣き顔なのに、誰より綺麗だった。


 俺はそっと彼女の頭を撫でた。

 その体温は弱々しくて、それでも確かに生きている証だった。


 ――何があっても守る。

 この子の過去に負けない未来を、俺が作る。


 強く、そう誓った。

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