第41話 揺れる心
夜の寮は静かだった。
洗面所から漏れる小さな明かりだけが、薄暗い部屋に柔らかく影を落としている。テオは既にベッドで寝息を立て、エマは部屋に戻ったのだろう。
そんな中で俺は、机に広げた医学書から目が離せずにいた。
——いや、正確には、目を“落とすだけで読めていない”。
ページの文字は行儀よく並んでいるのに、頭に入ってこない。
理由は分かっている。今日のことが、胸の奥でざわざわと渦を巻いているからだ。
「……はぁ」
ため息が漏れ、目頭を押さえる。
火事の時のエレナの手の震えを思い出すと、胸の鼓動がわずかに乱れる。
俺自身も、火の粉が吹き上がった瞬間、数年前の記憶を引きずり出されるようだった。
——孤児院の火事。
——救えなかった命。
——焼け落ちる天井の音。
頭では切り離したつもりでも、身体は覚えている。
エレナが「ヒーロー」と無邪気に言えば言うほど、その影が濃くなる。
「俺は……ヒーローなんかじゃない」
呟いた声は情けなく震えていた。
誰もいない静けさが、かえって心の揺れを浮き彫りにする。
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■ エレナの笑顔と、刺さる言葉
今日のエレナは、本当に楽しそうだった。
街中で笑って、跳ねて、俺の腕を掴んで……心臓が強く動くたびに安心して、俺の心も温かくなった。
あの笑顔を守れたことは、紛れもなく嬉しい。
……ただ、嬉しさの裏にいつも「怖さ」が張りついている。
守れなかった過去が、一度刻まれた怖さが、「次も守れるとは限らない」と囁いてくる。
だから、エレナの言葉が刺さる。
『にぃには、エレナのヒーローだもん!』
無邪気だからこそ、逃げ場がない。
俺はヒーローじゃない。ただの医療学生だ。
心臓に疾患を抱えている子を前に、俺はまだ十分な知識すら持っていない。
エレナは俺を信じすぎている。
だけど、その信頼が嬉しい一方で、重すぎる。
「……重いとか思ってるなら、最低だよな」
思わず自嘲した。
エレナにそんなつもりはない。ただ俺が弱いだけだ。
あの子の笑顔を守りたいと心から思うくせに、それを貫き通せる自信がまだ足りていない。
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■ テオとエマの言葉が胸に残る
夕方、買い物帰りのテオとエマと話した時のことが甦る。
『甘すぎる!』
『ちゃんと線を引かないと、あなたが倒れる』
エマの言葉は正論だ。
テオの「ハヤトは全部背負いがち」という軽口も、当たっている。
俺は甘い。
エレナに対して、異常なほど甘い。
あいつが笑えば嬉しくて、元気になれば安心して、落ち込めば胸が締め付けられる。
孤児院の頃の“守れなかった悔しさ”が、どうしても、影みたいに付きまとう。
——あの時の俺は弱かった。
——今だって、強いとは言えない。
でも。
それでも、あの子だけは守りたい。
もう二度と、大切なものを失いたくない。
その気持ちが、医療を選んだ理由の半分を占めている。
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■ エレナの寝顔が、さらに揺らす
「……にぃに……」
不意に聞こえた小さな声。
振り返ると、エレナが俺のベッドに横になりながら、薄い毛布に身を包んでいた。
どうやら買い物疲れで、俺の部屋でそのまま寝てしまったらしい。
寝顔は驚くほど穏やかで、胸がゆっくり上下している。
その動きを見るたびに、安堵と同時に、得体の知れない揺れが胸に広がる。
「お前……寝てる時だけは、本当に天使みたいだな」
そっと前髪を避けると、エレナの小さな手が俺の指を掴んだ。
驚いた。
寝ぼけているのか、それとも本能なのか。
「……にぃに……どこにも、いかないでね……」
その言葉は、まるで心の奥を直接つままれたみたいで、息が止まった。
行くわけがない。
だけど、同時に心のどこかで囁く声がある。
——本当に守れるのか?
俺は、震える指先をそっとほどくこともできず、ただ見つめ続けた。
「……いかないよ」
誰に聞かせるわけでもなく、ただ静かに言う。
「行くわけないだろ……お前を一人にするわけがない」
声に出した瞬間、胸の奥がひどく揺れた。
それは迷いでもあり、決意でもあり、恐れでもあり——
けれど、確かにあったのは「守りたい」という揺るぎない気持ちだった。
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■ 揺れるままでもいい
俺は弱い。
まだ知識も足りなくて、火事の影に怯える夜だってある。
エレナは俺を“スーパーヒーロー”なんて言うけど、そんな立派な存在じゃない。
ただ、大切な人を守りたいと願う、普通の人間だ。
でも——。
弱さごと抱えて、それでも立っていたい。
エレナの笑顔のそばにいたい。
揺れる心臓はまだ安定しない。
それでも、ここにいたいと思う気持ちは、確かだ。
夜が深くなるにつれ、エレナの寝息が静かに満ちていく。
俺はその音に耳を澄ませながら、ゆっくり目を閉じた。
——揺れたままでいい。
——この揺れごと抱えて、前に進めばいい。
そんなふうに思えた夜だった。




