第40話 天使?悪魔?
火事の騒ぎから、もう数日が経った。
あの日の焦げた匂いは、いまだに時折ふっと鼻をかすめる。ルミエールの広い敷地のどこにも焦げ跡は残っていないのに、俺の中ではまだ、熱気と煙の渦が続いているような感覚が抜けない。
朝は講義、昼は実習。
忙しさに紛れていれば忘れられるかと思っていたけれど、隙間ができると、救えなかった患者の影が静かに胸を叩いてくる。
「もっと出来たんじゃないか」「俺はまだ足りない」——そんな声が、いつも心のどこかでざわついている。
だからこそ、今日の光景は眩しすぎるくらいだった。
「ハヤトにぃにっ!」
中庭の向こうから、全力疾走でこちらへ飛び込んでくる小さな影。エレナだ。
頬に赤みが戻り、走り方にも力がある。つい数日前までベッドに倒れていたとは思えないほど、元気そのものだった。
「先生がね、今日から外歩きOKだって!だからね、だからね、にぃにと一緒に歩く日なの!」
「そうか。……本当に良かったな」
気づけば、俺は自然と笑っていた。
胸の奥で張りつめていた何かが、フッと緩む感覚。
“守れた”という事実が、こんなにも心を温めてくれるのかと、改めて思い知らされる。
エレナは俺の腕にしがみつき、跳ねるように言った。
「ねぇねぇ、にぃに。この前の火事の時ね……手、ぎゅってしてくれたでしょ?あれ、すっごく安心したよ。にぃに、ちょっとスーパーヒーローみたいだった!」
——また、それか。
“スーパーヒーロー”。
その言葉が胸を刺すのは、自分がそんな立派な存在と程遠いことを誰よりも知っているからだ。
「あれは……そんな大したもんじゃないよ。お前を守りたかっただけだ」
「でもね!エレナはヒーローって思ったの!」
満面の笑みで言われると、反論するのがばかばかしくなる。
この子はいつも、俺の心を一番簡単にほどいてしまう。
⸻
■ 回復祝いと、まさかの大暴走
せっかくの回復祝いだからと、俺たちはルミエールの街へ向かった。
医療学校の最寄りの商業エリアは、学生と観光客でいつも賑やかだ。
平日の午後でも店の明かりと人の声に活気があり、ただ歩くだけでも心が和らぐ。
「にぃに!見て見て!この前のデートで見たヘアピン、覚えてる?白い花のやつ!」
「う、うん……なんとなく」
「やっぱり欲しい気持ちが強くなってきたのっ!」
来た。
エレナの“欲しいスイッチ”だ。
「……買わないと、ダメか?」
「ダメじゃないよ?ほしいの!」
無邪気な笑顔で言われ、俺は早くも敗北を悟った。
しかしこの時の俺は、まだ知らなかった。
今日のエレナは“元気が戻った分だけ”暴走力も戻っていたということを。
「にぃに!こっちもかわいいよ!」
「やっぱりリボンのやつもほしい!」
「ねぇねぇ、お洋服も見ていい?ちょこっとだけ!」
“ちょこっと”のはずが、店を三つ回る頃には紙袋が片手では足りなくなっていた。
「おいエレナ、さすがに……」
「だってね!にぃにが嬉しそうに見てくれるから!」
「俺そんな顔してた?」
「にっこにこだった!」
……そんなはずは。
けれど鏡に映った自分の顔を思い返すと、確かにエレナが元気で笑っているだけで、肩の力が抜けるほど安心していた。
その安心感に気を取られていたら、そりゃ財布の紐なんて緩む。
⸻
■ 思わぬ場所で、同級生に遭遇
「ハヤトー!エレナちゃん!」
背後から声が飛び、振り返るとテオとエマが立っていた。
どうやら買い物帰りらしい。
「うわぁ……紙袋、すっご」
テオが引き笑いを漏らし、エマは完全に呆れ顔になる。
「ハヤト。聞くけど……これ、全部今日買ったの?」
「……まぁ、その……」
曖昧に笑うと、エマは額に手を当てた。
「やっぱり。あなた、昔から困ってる子を見ると財布の紐が消えるタイプだよね?」
「そんな消えてねぇよ」
「いやいや、消えてるよ!完全に!」
テオが即答し、俺は睨む。
「お前は黙ってろ」
「え〜?でもハヤト、エレナちゃんのためなら全部差し出しそうじゃない?命以外」
「命は差し出さないけど……でもまぁ……」
エレナが俺の袖を引っ張った。
「にぃに、これね、にぃにが選んだんだよ!ほら、可愛いでしょ?」
「ああ……似合うよ」
その瞬間、テオは腹を抱えて笑い、エマは深くため息をついた。
「……重症ね。もはや“にぃに”完全依存」
「ちょっと甘やかしすぎ。エレナちゃんのためにもよくないと思うけど?」
「わ、分かってるけど……」
「“けど”は禁止!」
エマがピシャリと言うと、テオが横から口を挟んだ。
「でもエマ、ハヤトがこうなる理由もわかるよ。火事の直後だし、エレナちゃん元気になって嬉しいでしょ?」
その言葉は、ぐさりと刺さるほど正しかった。
「……ああ。まぁな」
俺がぽつりと答えると、エマは少し表情を緩めた。
「……仕方ないか。あの子の笑顔、反則だもんね」
「でしょ?だから許されるの」
「エレナちゃんは許されても、あなたは許されないからね。後で請求額見て泣かないでよ?」
「泣くような額じゃ——ないといいな……」
口に出した瞬間、嫌な予感が背中を走った。
⸻
■ 帰宅。そして現実は無慈悲。
寮に戻り、紙袋を床に下ろすと同時にスマホが震えた。
【ご利用ありがとうございます。今月のご利用額は——】
画面に表示された数字を見た瞬間、呼吸が止まる。
「………………」
なんだこれは。
桁を間違えたのか?
いや、間違いじゃねぇ……。
「にぃに〜!見て見て!ほら、髪飾りつけた!」
俺の絶望など知らず、エレナは嬉しそうに鏡の前でくるくる回っていた。
ヘアピンは確かに似合っている。
それ自体に後悔はない。
——問題は、量だ。
「……可愛いよ」
心の底から出た言葉に嘘はない。
だけど、俺のクレジットカードは完全に戦死していた。
⸻
■ エマの正論と、テオの微妙なフォロー
「で。説明は?」
エマが腕を組み、テーブル越しに俺を見据える。
「いや……その……エレナが元気そうで嬉しくて……」
「だから買い占めた、と?」
「買い占めてはないって……」
「量的には買い占めとほぼ同義よ?」
エマの厳しい言葉に、テオが「まぁまぁ」と俺の肩をぽんぽん叩く。
「ほらエマ、ハヤトは“喜んでくれたからそれでいいや”タイプだし」
「テオ、それフォローになってないわよ」
「えっ、なってないの?」
「なってない」
エマは深くため息をつき、少し柔らかい目になった。
「……でもね。エレナちゃん、本当に元気そうだった。
その顔を見たら、ハヤトが甘くなるのも、まぁ……理解はできる」
「エマ……珍しく優しいじゃん」
「優しいんじゃなくて、事実を言ってるだけ」
そう言いながら、エマは俺を正面から見た。
「ハヤト。あなたは“守りたい”と思ったら全力になる。でもその分、疲れるのも早いの。
だから——ちゃんと休むこと。分かった?」
「……ああ。分かってるよ」
本当に疲れていた。
身体じゃない。
気持ちの方だ。
でも、その疲れを上回る“救われる感じ”が、今日のエレナにはあった。
「疲れたけど……エレナが元気になるなら、それでいいんだ」
口に出すと、テオが「やっぱハヤトだわ〜」と笑い、エマは苦笑を浮かべる。
「ほんと、あなたって……」
「うん、“にぃに”そのものだね」
エレナが駆け寄ってきて俺の袖をつまんだ。
「にぃに、次ね——」
「次は……また今度な」
エレナは「えへへ」と笑い、俺の胸に頭をこすりつけてくる。
この子の笑顔がある限り、俺はたぶん、何度でも甘くなってしまうだろう。
それでもいい。
そう思えるくらいには、大切なんだ。




