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倒れないでくれ! ――限界と選択を描く医療ヒューマンドラマ――  作者: 東雲 明
プロローグ:はじまりの物語

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第4話 倒れないでくれ!旅立ち初日、もう目を付けられました

学用品を買い終えてから数日後、俺、キサラギ・ハヤトはついに孤児院を後にする日を迎えた。


朝の霧が村をすっぽり覆ってて、いつもの家並みや木々がぼんやり霞んで見える。湿った空気が頰にくっついてきて、遠くの鶏の声もなんだかくぐもってる。馬車の車輪が石畳を転がる音が、今日はやけに重く響いた。まるで別れを惜しむ鐘みたいだな、なんて思った。


孤児院の門の前で、カレン先生が静かに待ってた。俺をここまで育ててくれた人だ。優しいだけじゃなく、時にはきっちり叱ってくれた手が、今でもはっきり思い出せる。荷物を抱えて近づくと、先生は小さく笑った。


「懐かしいわね。あの時、あなたに仕事任せたら、私の大事なエプロンを泥沼に落としちゃったこと、まだ覚えてる?」


穏やかな声だけど、瞳の奥が少し揺れてるのがわかった。俺は苦笑いしながら頭を下げた。


「……ほんとにすみませんでした。あの時は必死に洗おうとして、かえって川に流しちゃってさ」


あの日のことが頭に浮かぶ。泥だらけのエプロンを慌てて持ち上げたら、バランス崩してポチャン。先生は怒るどころか、くすくす笑いながら「次は気をつけてね」って言ってくれた。あの優しさが、今でも胸に染みてる。


先生は小さく息を吐いて、俺の肩に手を置いた。じんわり温かさが伝わってくる。


「立派な医者になってね。誰かの希望の光になれるように。あなたなら、きっとできるわ」


その言葉に、胸の奥が熱くなった。孤児院で過ごした日々――熱出した子を看病して、自分の無力さを思い知らされたあの時間――が、全部この一言に繋がってる気がした。


「はい。必ず、頑張ります」


声が少し震えちまった。先生は優しく頷いてくれた。


やがて遠くから汽笛が低く鳴って、列車が近づいてくる。俺は荷物を抱え直して、プラットフォームへ急いだ。霧の中を走る足が、なぜか重い。


列車に飛び乗ると、車内は革の座席と石炭の煤の匂いが混じり合って、ちょっと息苦しかった。窓の外、村の景色がゆっくり後ろへ流れていく。孤児院の屋根、先生の姿が、霧に溶けるように遠ざかっていく。ドアが閉まる金属音が、胸に鈍く響いた。


席に座ると、すぐに周りの視線が刺さってきた。上級生らしい連中が、ひそひそ話してる。湿った煙みたいなささやきが、車内に広がる。


「あの子だよね。あの動画の……患者を抱えて走ってたやつ」


「実物は意外と普通。もっと英雄っぽいと思ってたのに」


「でも、なんか危なっかしい感じするよね。無茶しそう」


「制服の着方も真面目すぎ。固いタイプかな」


可愛いとか危なっかしいとか、勝手なこと言ってくれるなよ。俺はただ、普通に医学生やりたいだけなのに。胸の奥がざわついて、息が浅くなる。あの動画のせいで、こんなところで注目されるなんて思ってもみなかった。あの時はただ、必死だっただけなのに。


嫌な予感がしたその時、コンパートメントのドアが重い音を立てて開いた。冷たい空気が流れ込んで、首筋を撫でる。長身の影が、滑り込むように入ってきた。


マルクス・ヴェルナー。


金髪が風を切って揺れて、青い瞳が鋭く俺を射抜く。マントの裾が翻って、空気が一気に張り詰めた。上級生たちのささやきがぴたりと止まって、車内が静まり返る。まるで時間が止まったみたいだった。


マルクスはゆっくり近づいてきて、俺の膝に置いてた医学書を無造作に拾い上げた。ページを乱暴にめくって、鼻で笑う。


「返せよ」


声が低くて、冷え切ってた。指先にじっとり汗がにじむ。心臓の音が、掌にまで伝わってくる。やばい。入学前からこんな奴に目をつけられるとは。


俺は無言で本を握り直した。まだ知られたくないことが多すぎる。孤児院のこと、動画の裏側にある苦い記憶。それを掘り返されるわけにはいかない。


「ふん……入学前から必死に勉強か。そういうタイプか、キサラギ・ハヤト」


名前を呼ばれて、背筋が凍った。視線が胸の奥まで入り込んでくるみたいで、息が詰まる。


「派手な動画のわりに、地味だな。まあ医者になりたいんだろ? なら、俺の前で無様に倒れるんじゃないぞ」


嘲笑が耳に突き刺さる。胸の奥が黒い苛立ちでざわついて、手に力が入った。ページを握る指が、わずかに震える。


周りの上級生たちは顔を伏せて、何も言わない。でも、かすかに声が漏れてくる。


「うわ、早速マルクスに絡まれてる……」


「今日からなのに、運悪いね」


「ほんと最悪……」


俺は拳を握りしめた。この男の影は重い。ただの嫌味じゃ済まない何かがある。貴族っぽい傲慢さと、医者としての冷たい視線。全部が、俺の覚悟を試してるみたいだ。


列車の揺れが、息苦しさをさらに煽る。視界の端で、マルクスの影が長く伸びてる。彼が動くたび、空気が歪むような気がする。吐息一つで、冷たさが胸まで染み込んでくる。


「……なんだ、その目」


マルクスの笑みが、薄く深くなった。目は全然笑ってない。その視線は、俺の決意を根こそぎ見透かそうとしてる。


「せいぜい頑張れよ。君みたいな“話題の子”が、どこまで持つか……楽しみだ」


ページをめくる手が、ぶるぶる震えた。でも、俺は奥歯を噛みしめて、呼吸を整えた。知識だけが俺の武器だ。この列車の中で、最初の試練が始まってる。


窓の外、朝霧の向こうで村が小さくなっていく。変わらない田園風景と、変わり始めた俺。孤児院の日々が、ここでようやく意味を持ち始める。誰も倒れさせたくない。俺自身も、他の人も。


マルクスの視線を背中に感じながら、俺は心を固めた。この男の闇を、患者の前で晒すわけにはいかない。どんな挑発にも屈せず、医学生としてちゃんと立つ。


列車はガタガタと揺れ続ける。それでも、手の中の医学書の重みが、俺を現実に引き戻してくれる。一ページ一ページ、知識が積み重なっていく。心の中で、静かに誓った。


――絶対に、負けねえ。


マルクスが深く息を吐いて、膝に本を戻した。そして、最後に言葉を残す。


「……見てろよ、キサラギ・ハヤト。医者として立つってのは、覚悟のいる仕事だ。覚悟がないなら、今すぐ降りろ」


その目は毒々しく、未来を試す光を宿していた。俺は息を飲んで、目を逸らさなかった。この勝負は、今日から始まったばかりだ。


コンパートメントに緊張が漂ってる。上級生たちの視線が、まだざわついてる。


「うわ、最悪……」


「マルクス、怖いよ……」


そんな声が、遠くに聞こえてくる。


列車の揺れに合わせて、胸が上下する。でも、希望の光はまだ消えちゃいない。ここからが、本当のスタートだ。


孤児院の日々を、患者を守る未来にちゃんと繋げる。絶対に倒れず、誰かの光になる。


俺は拳を固く握りしめたまま、窓の外に目をやった。霧の向こうに、ルミエールアカデミーの建物が、いつか姿を現すはずだ。そこにはどんな試練が待ってるのか。マルクスとの対立なんて、きっと氷山の一角にすぎない。


列車は霧を切り裂いて、前へ進む。俺の心も、もう一歩、強く踏み出した。


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