第39話 最大の危機?!〜脱出編〜
炎の音が耳を殴るようだ。金属が熱で唸り、床材が軋む。非常灯の橙色が、すべてを不穏に染める。エレナの小さな手を握ると、爪の跡が俺の掌に残る。痛い。けど、それは生きている証拠の痛みだ。俺はその痛みを握りつぶすようにして、足を前に出した。
「走るぞ、エレナ。しっかり俺の肩にしがみつけ。」
「にぃに……すごく熱い……」
彼女の声が震える。嗚咽を抑えた息づかいが、俺の胸を掻きむしる。だけど、俺の鼓動は変わっていく。恐怖が怒りに変わり、怒りが集中力に変わる。医者としての本能と、恋人としての本能が一つになった瞬間だった。
非常階段へ向かう廊下は、すでに半分が火に包まれている。だが、それでも他に逃げ道はない。非常階段の方角へ向けて、小刻みに体を傾け、エレナの体を自分の前に抱き込む。俺が盾になる。煙は濃く、視界は悪い。口には濡れタオルをあてがい、肺に入る熱気を少しでも和らげる。
「にぃに……苦しい……」
「しっかり。息は浅くていい、ゆっくりだ。」
エレナの肩を抱き締めながら、急いで階段に足をかけた――その瞬間、背後で乱暴な声が響いた。
「待て、キサラギ!」
振り向く余裕はない。だが、声の主が誰なのかは分かっていた。マルクスだ。最悪だ。奴は先ほどの薄笑いのまま、階段を塞ぐ形で立っていた。片手には何か金属のパイプか棒状のものを握っている。非常灯に反射して、鈍く光った。
「ここで止まれ。これ以上行くなら、君が障害になる。」
人の命を天秤にかけて威圧する男がいる。吐き気がしたが、吐くほどの余裕はない。エレナの小さな手が、俺の指をさらに強く握る。俺は、視線を真っすぐマルクスに向けた。
「どけ、マルクス。ドル箱の権力で学園を縛るのは、今やめろ。」
「学園の秩序を守るのも、我々の務めだ。混乱を煽る者は排除する。」
言葉はもっともらしい。だが、その眼は狂気じみている。彼の指先に力がこもる。何をするつもりだ――。
マルクスが棒を振り上げる。威嚇か、それとも本気か。俺は無意識にエレナを守るため、身を低くした。動きは一瞬の隙をつく。そこで俺は、冷静に状況を判断した。頭の中で手順が回る。火災下での行動。煙中での視界の確保。子どもを安心させる言葉。医学生としての訓練が、身体の反射と同期する。
「エマ、テオ!」叫びたかったが、彼らは別の避難経路を作るのに手一杯だ。スタッフの声が遠くで聞こえる。ここで殴り合いをしている時間はない。だが、マルクスが動けば、エレナの命が危ない。
瞬間、俺は動いた。素早く片膝をつき、エレナを俺の体の陰に隠す。火の熱と煙から少しでも守るためだ。そのまま低い姿勢のまま、素早く振り向き、マルクスの振り下ろす棒を払いのける――腕力では勝てない。だが俺は、相手の重心を崩す一瞬のタイミングを狙った。接近戦で、相手に一瞬の躊躇を与える。
棒が床に当たり、金属音が廊下に鳴り響いた。マルクスが驚きの表情を見せる。俺はその隙を逃さず、エレナを抱えて階段へ向けて飛び込んだ。
「くそっ!」
マルクスが追いかけてきた。階段は狭く、二人で一気に駆け上がる。吐き気を押し殺しながら、息を整える。階段の踊り場で、上から熱風が吹き下ろす。そこへ、マルクスが両手で俺を掴み、強引に押し戻そうとした。
「離せ!」
「ここを通すわけにはいかない!」
押し合いになる。汗と煤で顔が熱い。エレナが俺の首筋にしがみつく。恐怖で顔がこわばっている。だが、その顔を見た瞬間、俺の中の何かが切り替わった。血の奥から湧き上がる決意。俺はエレナを抱きしめ、身体をねじってマルクスの片腕を外すと、膝蹴りのように足を使って彼の腹部をこじ開けた。その衝撃でマルクスの力が抜けた隙に、俺はエレナを連れて更に上へと駆けた。
階段を駆け上がるごとに、脳裏をよぎるのは中等部の顔ぶれ。小さな患者たちの顔。あの笑い声。俺は、守らなければならない人たちの列を思い浮かべ、己の体を奮い立たせた。
非常口にたどり着いた瞬間、大きな音とともに上階のガラスが砕け、粉塵が吹き込んだ。炎の反射が踊る。非常口の扉は何とか開いたが、その向こうは屋外ではなく、低い避難通路。そこへ濃い煙が流れ込んでいる。逃げ場はまだ、完全には開けていない。
「ここを抜けるんだ!」声が背後で飛んだ。テオの声だ。続いてエマも見えた。二人はびしょ濡れの消火用具を抱えており、エマが持っていた消火器と簡易シートを使って、煙の逃げ道を作ろうとしている。
「よかった……!」エレナの顔にかすかな光が戻る。
だが安堵は短かった。マルクスがゆっくりと立ち上がり、顔をぐしゃりと歪めてこちらを見た。その目に、以前より濃い敵意が灯る。
「まだ終わっていない、キサラギ。」
奴はそう言うと、非常口の扉に向かって何かを投げつけた。小さな爆発音とともに、ドア近くの配線がショートし、火花が飛び散る。スパークが窓のカーテンに引火し、火は勢いを増す。
「やめろ!」エマが叫ぶ。だが燃え広がるのは早い。瞬間的に熱が襲い、目の奥がチカチカする。
俺は冷静さを保つために、医学的な優先順位を立てた。まずはエレナの呼吸を確保する。次に、低酸素症が進まないうちに安全な場所へ移動する。エレナの顔色は青白く、唇が薄く紫が差している。酸素が不足している。手早く俺はエレナのマスク代わりに濡れタオルを顔にあて、鼻の下から口を塞がないようにして少しでも新鮮な空気を取り込ませる。
「にぃに……」
「もうすぐだ。テオ、エマ、ルート確保を頼む。外へ出せ。」
テオが肩を大きくうなずき、エマと二人で俺たちの前に立つ。彼らの顔には血の気が引いているが、目は燃えていた。仲間の姿を見たとき、俺の中で何かが弾ける。これがチームだ。仲間がいれば、どんな火も切り抜けられる気がした。
マルクスは最後の抵抗を試みた。彼は網棚から酸素ボンベのような筒を引きずり出し、扉の付近に転がした。明らかに危険な行為だ。もしそれが破裂すれば、爆風で全員が吹き飛ばされる。時間の流れがスローモーションになった。俺は一瞬で判断を下す。
「テオ! あのボンベを押さえろ! エマ、消火器で火の根元を叩いて!」
二人が反応する。テオが咄嗟に走り込み、ボンベに飛びついて体重をかけた。エマは一連の動作で消火器を連射する。火は一時的に抑えられたが、煙はますます濃くなる。
俺はエレナの肩を抱き、強引に非常口を抜けた。外の風が顔を殴る。新鮮な空気が肺に滑り込む感覚に、思わず涙が出そうになる。屋上へ続く階段を駆け上がり、ついに外部へと脱出した瞬間、警報が轟き、遠くでサイレンが鳴った。
外にはすでに救助隊が集まり、教職員が生徒を誘導している。俺はエレナを安全な場所に寝かせ、すぐに彼女の呼吸と脈拍を確認する。脈は速く、浅い。酸素飽和度は確かに落ちている。テオが救急箱を抱えて駆け寄ってくる。エマは額に手を当て、ほっとしたように息をつく。
「ハヤト、大丈夫か?」テオが訊く。顔の煤で誰だか分からないが、声のトーンで彼だと分かる。
「ああ。エレナは酸素が必要だ。仮にここで応急処置する。マスクとシリンジを貸してくれ。」
テオが応急用の酸素マスクを持ってきてくれた。俺は素早くエレナの顔に被せ、酸素を流す。彼女の指先にクリップを付けて、簡易のパルスを確認する。数値は少しずつ上がっていく。良かった――。
その時、背後でドサッという重い音がして、マルクスが救助隊に囲まれて連行されていくのが見えた。彼はまだプライドに満ちた顔をしていたが、その目にはどこか虚しさが残っている。救助隊が彼の腕を取ると、彼はようやく力なく俯いた。俺は何も言わず、ただエレナの手を握った。
「にぃに、ありがとう……」彼女の声はまだ弱いが、確かに俺だけを見ていた。胸の中が熱くなって、視界の端が滲む。
俺は笑顔を作ろうとした。医学生として、冷静でいるべき瞬間だ。でも、目の前の小さな頬に涙が伝っているのを見て、抑えていた感情が溢れ出した。ぐっときて、堪えきれなくなった俺は、そっとエレナの額にキスをした。短く、だけど確かな約束のつもりで。
「もう大丈夫。にぃにがいるから。」
その言葉に、エレナはかすかに笑った。周りは騒然としている。救援の手が次々と動く。だが、俺たちの世界は一瞬、二人だけになった。胸の奥にあるものが、熱く芽吹くのを感じる。守った。守れた。あの瞬間、それだけで世界が震えたように思えた。
後日。マルクスは学園規則違反と危険行為で処分を受け、保護者の呼び出しや謝罪が相次いだらしい。詳しいことは後で聞かされたが、あの時の彼の行動には様々な事情が絡んでいるらしい。だが、それは別の話だ。
俺が知っているのは、今日、俺はエレナを守ったという事実だ。心臓の鼓動はまだ早い。手はまだ震えている。でも、確かなものが一つ増えた。俺は医者になるため、もっと強くならなければならない。守るための知識と技術を身につけるために、俺はこれからも必死でやる。それが、エレナと交わした無言の誓いだ。
夜、騒ぎが落ち着いてから、エレナは静かに俺の手を握った。
「にぃに……ありがとう。本当にありがとう。」
「当たり前だ。ずっと一緒だ。」
彼女が目を閉じると、その顔には安堵が広がり、微笑が浮かんだ。俺はその寝顔を見つめながら、密かに誓った。次にこんなことがあったら、もっと早く、もっと強く、もっと全力で守る。ハリウッドみたいな脱出劇は、もう勘弁だけどな――と、心の中で苦笑した。
だが、もし次が来たら――俺は迷わず飛び込むだろう。エレナのためなら、どんな火の中にも。どんな敵にも。どんな絶望にも。
守る。それが、俺の選んだ生き方だ




