第38話 最大の危機?!
あの日のことを、俺はきっと一生忘れないと思う。
火事と停電。医療の現場で最も恐れられる事態が、一瞬にして俺たちの平穏を奪った。
実習室の壁が細かく震え、蛍光灯が白く瞬いて──次の瞬間、すべてが暗闇に沈んだ。
反射的に息を呑む。喉の奥を焦がすような匂いが鼻を突き、胸の奥がざわつき始めた。
「火災発生! 医療棟南側、原因不明!」
緊急アナウンスの声が、暗い室内にこだました。
慌ただしく医師や職員が走り回る気配がし、壁越しに誰かの叫び声が聞こえた。
嫌な冷たい汗が背中を伝う。
でも、そんなことより──
「……エレナは?」
俺の脳裏には、それしか浮かばなかった。
テオが蒼白な顔で駆け込んでくる。
「ハヤト! 中等部病棟、非常電源が落ちかけてる! エレナちゃん、まだ一人で待機中だって!」
鼓動が一気に跳ね上がる。
冷静でいなきゃ、と思うのに、胸の中に広がる焦りはどうにも押さえ込めなかった。
「……行く。俺が迎えに行く。」
「危ないよ!」エマが俺の腕を掴む。「火の広がり方が早い。医師も手薄。誰も君をフォローできないよ!」
「分かってる。でも行かないわけにはいかない。」
俺の声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。
その冷静さの源はたぶん、恐怖じゃなくて、覚悟だった。
エレナを置いて逃げるなんて、俺にはできない。
エマが震える手で防煙マスクを押しつけてくる。
「……戻ってきて。絶対。」
「ああ。ありがとう。」
テオとエマは、もう他の患者の避難に向かわなきゃならない。
二人の背中を見送り、俺は燃え上がる医療棟へ走り出した。
⸻
廊下は厚い煙で満ちていた。非常灯だけが薄いオレンジの光を投げかける。
視界が滲む。目が痛い。肺に熱い空気が入り、喉が焼けるようだ。
それでも足は止まらない。
エレナが怖がっていないわけがない。
狭い病室にひとり。停電で機器は最小限の稼働しかしていない。
何かあったら──そう考えた瞬間、胸が締めつけられた。
俺はただの医学生で、こんな火災現場では力も限られている。
だけど、あの子の手を取ってやれるのが俺だけなら、行くしかない。
そう自分に言い聞かせながら角を曲がったときだった。
「……ちょうど来ると思っていたよ、キサラギ。」
煙を切り裂くような声。
そこに立っていたのは、蛇寮の制服。マルクス・ヴェルナー。
最悪のタイミングだ。
「どいてくれ、マルクス。」
「こんな非常時に走り回るとは、優等生の君らしくないね。」
薄笑いを含んだ声音。
その余裕が、逆に背筋を冷たくした。
「エレナの病棟はこの先だ。君を行かせるわけにはいかない。」
「……理由は?」
「簡単だよ。君がいると、面白くない。」
イラつきより先に、呆れがこみ上げてきた。
「こんな状況でも、そんなこと言えるのか。病棟には患者だって残ってる。エレナだけじゃない。」
「知ったことじゃない。」
マルクスは肩をすくめる。その態度には、煙よりも濃い嫌悪感があった。
「救えない命は救えない。それが医療だろう?」
「違う。」
思わず、強い声が出た。
「救いたいと願う限り、最後の瞬間まで動き続ける。それが俺たちだ。」
「理想論だね。子供染みている。」
「子供でもなんでもいい。彼女を見捨てる理由にはならない。」
マルクスの表情がわずかに変わった。
一瞬、苛立ちとも驚きともつかない影が走る。
「……恋人のために、ここまで必死になれるとはね。」
挑発するような言い草。
だけど、もう言葉を返す気すらなかった。
「通せ。今すぐ。」
「断る。」
そう言って腕を広げた瞬間──
「……にぃに……?」
か細い声が煙の奥から聞こえた。
エレナの声だ。
「エレナッ!」
反射的に飛び出そうとした俺を、マルクスが掴む。
「待て!」
「離せッ!」
振り払うと同時に駆け出した。
マルクスが何か叫んでいたが、もう聞こえない。
エレナの声だけが、俺の中で響いていた。
⸻
「エレナ! どこだ!」
煙の向こうで、小さな影が震えていた。
膝を抱え、目を赤くして、必死に息をしている。
その姿を見た瞬間、胸がぐっと掴まれた。
「にぃに……っ!」
「来たよ。大丈夫だ、もう離れない。」
エレナの肩を抱き寄せた瞬間、彼女の体温が腕に伝わった。
その温もりに、心底、救われた気がする。
「怖かった……停電で真っ暗で……どんどん煙が来て……」
「よく頑張った。もう大丈夫だ。」
震える手を握りしめながら、俺は周囲を確認した。
戻るべき廊下は──
「……崩れてる。」
天井の一部が落ち、炎が激しく燃え上がっていた。
完全に塞がれている。
息が詰まる。
エレナの小さな手が、さらに俺をきゅっと握りしめた。
「にぃに……帰れないの……?」
「……大丈夫。別のルートを探す。」
言いながら、確証はどこにもなかった。
喉が焼けるほどの熱。煙はどんどん濃くなっている。
時間がない。
でも──エレナの震える肩を抱いた瞬間、迷いは消えていた。
俺は医学生で、まだ未熟だ。
火の前では無力かもしれない。
それでも。
「絶対に、守る。」
声に出した瞬間、不思議なくらい迷いが消えた。
エレナが見上げる。
泣きそうな、でも信じてくれている目で。
「にぃに……一緒に帰ろうね……?」
「ああ。必ずだ。」
俺たちは立ち上がった。
炎の音が、まるで行く手を嘲笑うように轟く。
避難ルートは、もはや一つしかない。
非常階段の方──だが、そこも煙が回り始めている。
息を整え、エレナの手を握り直した。
「走るぞ、エレナ。離すな。」
「うん……!」
全身が熱に焼かれるような中、俺たちの脱出が始まった。
──最大の危機は、ここからだった。




