第37話 小さな文字、大きな思い
今日の実習も、いつも以上に気が抜けなかった。心の奥で、ふと昨日のことを思い出す。エレナの笑顔、あのデート中の出来事——守りたいという思いが、胸の奥でじわりと膨らんでいる。
「ハヤト、次の患者さん、血圧測ってくれる?」
教員の声で現実に戻る。手元のカルテを確認し、血圧計を準備する。隣ではテオがにやにやしている。目が合うと、わざとらしいほどに楽しげに笑った。
「なあハヤト、ちょっと遊びでいいから、エレナへの気持ち、ノートに書いてみろよ」
思わずむっとして顔をしかめる。
「何言ってるんだよ、実習中だぞ」
テオは手を振って軽くあしらう。
「大丈夫大丈夫、誰にも見せなきゃいいんだって。なあ、ハヤトの秘密のラブレタータイム、見たいだろ?」
その言葉に、心の奥でくすぐられる感覚が走る。いや、ほんの少しだけ、書きたい気もする——そんな自分がいることに気づいて、軽く息をつく。
実習の合間、手を止めてノートを取り出す。テオは手を肩に置き、わざとらしく覗き込む。
「さあさあ、書きなよ書きなよ。見てみたいな、どんな字で“好き”って書くのか」
俺は顔を真っ赤にしてノートを胸に押し当てた。
「ちょ、ちょっと……テオ、やめろって」
しかしテオの楽しそうな笑顔に、思わず笑みがこぼれそうになる。くそ、絶対負けられない……と思いつつも、ペンを握る手は自然と動き出した。
「好き……好き……好き……」
文字を並べるたび、胸の奥がじんわり熱くなる。小さな呟きが、ノートに踊る。「守りたい……大切……」も書き添える。
テオは身を乗り出して、指でハヤトのノートを軽くつつく。
「ほらほら、やっぱ書きたかったんだろ? にしても……すげえな、文字がもう愛に満ちてるじゃん」
「ち、違う、別に……」
赤面しながらも、俺は書き続ける。ノートに並ぶ「好き」は、まるで小さな呪文のように、胸の中の想いを形にしてくれた。
実習に戻ると、心は少し落ち着いたが、まだ微妙な緊張感は残る。テオは隣で、患者の名前を間違えたり、わざとらしく器具を持ち替えたりして俺を冷やかす。
「ほら、集中してるフリしてるけど、実は頭の中エレナのことでいっぱいだろ?」
「うるさい!」
つい口に出してしまうが、心のどこかで、テオの言う通りだと認めている自分がいる。いや、それを認めることで、少し気が楽になるのも事実だ。
患者のバイタル測定、採血、心電図の確認——今日の実習は、手技の一つひとつを慎重にこなさなければならなかった。手順や理論の確認はもちろんだが、患者の表情や呼吸の変化を見逃さないことも重要だ。ハヤトはペンを持ちながら、ノートに小さく手技のメモも残していく。テオは「見せろよー、手順より恋心のメモの方が多いんじゃね?」と小声で囁いてくる。
俺は内心焦りながらも、また文字を書く。
「好き……守る……大切……」
書き終えたページを閉じる頃には、胸の中のもやもやが少し軽くなった。守りたいという思いも、恋心も、文字にして吐き出すことで、より強く確かになった気がした。
放課後、寮に戻ると、テオはさらに冷やかす。
「さっきのノート、読ませろよ。きっとエレナにだけじゃなく、俺にも告白してる文字が混ざってるんだろ?」
「……絶対に見せない」
それでも、テオの軽口に笑ってしまう自分もいる。笑いながらも、心の中で、エレナを守りたいという決意がより強くなる。医療の現場での一つひとつの行動も、日常の小さな気遣いも、全部が繋がっているのだと思えた。
夜、部屋でノートを開き直す。今日の実習で学んだこと、手技の反省、患者への対応——それと同時に、エレナへの気持ちも文字に残す。ページの端には小さく「守る」と書き添える。
心の中にあるもの——それは、不安でもなく、単なる恋心でもない。守りたいという覚悟と、医療従事者としての責任感だった。
携帯に目をやると、エレナからの短いメッセージが届いていた。
「今日もありがとう、ハヤトにぃに」
小さな文字列に込められた気持ちに、自然と笑みを返す。心の中の呪文が、今日一日の力になってくれる——そんな気がした。
明日もまた実習は続く。新しい患者、そして医療の現場で求められる正確さと判断力——すべてに全力で向き合う覚悟が、胸の中で静かに燃えていた。ノートの呪文は、ただの文字ではなく、俺の行動を支える力になってくれる




