第36話 心の中にあるもの
今日の実習は、いつも以上に気が抜けなかった。心のどこかで、あのデート中の出来事が引っかかっている。エレナが不良に絡まれたあの日——その瞬間の光景が、まだ鮮明に蘇ってくる。
「ハヤト、次の患者さんのバイタル測定、お願いね」
指導教員の声で、現実に引き戻される。深呼吸をして、自分を落ち着ける。今、目の前の患者に全神経を集中させることが最優先だ。心の奥では、エレナが元気でいてくれるかどうかが気がかりで仕方なかった。
ベッドの前に立ち、カルテを確認する。年齢や既往症、アレルギーの有無、前回のバイタルの変化——あらゆる情報を頭に入れる。心拍数を確認し、血圧を測る。手がわずかに震えるのを感じる。頭の中にエレナの顔が浮かぶたび、胸が締め付けられるようだった。
「深呼吸、深呼吸……集中だ、俺」
声に出さず自分に言い聞かせる。聴診器を胸に当て、肺音を確認する。呼吸のリズムは整っているが、微かに湿った音が混じる。少し注意が必要だ。心臓の鼓動は安定しているが、早すぎず遅すぎず。波形を確認しながら、リードの位置を微調整する。
隣で実習しているテオの様子が目に入る。いつも通り明るく、少し抜けた表情で器具を持っている。俺は軽く笑いかけるが、集中が切れた瞬間、手元の器具をひとつ落としてしまった。
「ハヤト、手元に気をつけて」
指導教員の声に、小さく頷く。焦りのせいで心拍数が上がり、血圧も少し高めになってしまったのを感じる。減点の対象になることは避けたいが、頭の中で再びエレナのことがちらつく。
ベッドサイドに戻り、注射用の針を用意する。今日の実習では、静脈注射の演習も含まれていた。慎重にアルコールで皮膚を消毒し、血管を確認する。針を差し込む瞬間、わずかに手が震えたが、深呼吸で落ち着ける。針先が静脈に入り、薬液を注入すると、患者の表情が少し和らいだのがわかった。やはり、適切な処置は人の気持ちまで安定させる力がある。
しかし、その直後、手元が再びぶれる。ほんの小さなミスでも、医療現場では大きな影響を及ぼす。心のどこかで、「もしエレナのことを考えていなければ……」という思いが頭をよぎる。自分に苛立ち、心臓が高鳴るのを感じながらも、気持ちを切り替えるしかなかった。
その後、バイタルの再確認と、採血の手順を進める。針の角度や血管の硬さ、患者の表情まで観察しながら作業を行う。テオが隣で冗談を言って笑わせてくれるが、今日はそれに乗る余裕はない。集中することで、ようやく心のざわつきが少しだけ収まった。
実習が終わると、俺は真っ先にエレナのところへ向かった。寮の一角で、彼女は少し疲れた様子で座っていた。手元の本を閉じると、微笑みで迎えてくれる。
「エレナ、大丈夫か?」
「うん、ハヤトにぃに、心配しなくても平気だよ」
その笑顔に、胸の中の重さが少し軽くなる。でも、心配が完全に消えたわけではない。今日の実習でのミスも、あの日のデートのことも、全部が俺の胸に引っかかっている。
「今日、実習でちょっと失敗しちゃった……でも、エレナのこと考えてたせいだから仕方ないんだ」
思わず口に出すと、エレナは優しく笑った。「私のこと、そんなに考えてくれてたんだね」
その瞬間、俺は決意した。これからは、心配だけでなく、行動で示そう。医療現場でも、日常でも、全力で守る——それが俺にできる愛の形だ。
その夜、寮の自室に戻ったあとも、頭の中で今日の実習を振り返る。手技の一つ一つを思い返し、どうすればより安全に、より確実にできたかを考える。手順や理論の確認はもちろんだが、患者との目線のやり取り、呼吸の変化、表情の微妙な動き——そういう細かいところに気づけるかどうかが、医療従事者としての差になる。
心のどこかで、エレナのことが頭を離れない。それは決して集中の妨げではなく、むしろ俺の中での覚悟の一部になりつつあった。守りたい、という気持ちが、医療の学びにも直結しているように思えた。
ベッドサイドでの手技、バイタル測定、静脈注射の一連の流れ——今日の経験は、確実に俺を成長させてくれた。減点もあったけれど、それ以上に学んだことの方が多い。心の中にあるもの——それは、不安でもなく、単なる恋心でもない。守りたいという覚悟と、医療従事者としての責任感だった。
机に向かい、カルテに今日の反省と気づきをまとめる。文章に起こすことで、頭の中の整理がつき、気持ちが少し軽くなる。明日もまた実習は続く。新しい患者、そして医療の現場で求められる正確さと判断力——すべてを全力で向き合う覚悟が、俺の胸の中で静かに燃えていた。
そして、ふと携帯に目をやる。エレナからの短いメッセージ——「今日もありがとう、ハヤトにぃに」
小さな文字列に込められた気持ちに、俺は自然と笑みを返す。心の中にあるもの——それは確かに形には見えないが、強く確かに存在している。それを胸に、俺は明日も医療の現場に立つ。守るべきものがある限り、俺の挑戦は続くのだ。




