第35話 スーパーヒーローの噂
昨日のデートの余韻が、まだ胸の奥でぽうっと灯り続けていた。
エレナが照れたように笑って、ぎゅっと俺の袖をつかんだ瞬間。
その温度が、今朝になっても離れない。
——あのあと。
ルミエールの街であいつらに絡まれなければ、完璧だったんだけどな。
病院帰りの道で、不良が数人進路を塞いだ。
エレナが怯えた顔で俺の袖を握った瞬間、意識より先に身体が動いた。
手首を振り払っただけ。ただそれだけ。
なのに相手は驚いたように一気に下がり、逃げるように散っていった。
戦ったわけでもなく、追い払ったわけでもない。
……勝手に逃げただけだ。
ところが翌朝、寮を出て数歩歩いただけで、周囲の空気が明らかに違うことを悟った。
食堂に入ると、視線が一気に集中する。
「……お、おはよう?」
返事は返ってくるが、みんな俺を“観察”しているような目をしていた。
廊下の掲示板の前には、人だかり。
嫌な予感がして近づくと、そこには学校新聞部の号外が貼られていた。
『医療部2年 キサラギ・ハヤト、ルミエールで不良グループを制圧!
中等部生を守り抜く——勇敢な行動』
「……どこが制圧なんだよ……」
思わず額を押さえた。
誰がどう盛ったらこういう文章になるんだ。
しかし周囲は大盛り上がりだった。
「キサラギ先輩マジすごい!」
「彼女守ったんだって? 最高じゃん!」
「ヒーロー……!」
やめてくれ。
胃が縮む音が聞こえる。
「いやいや、これは本当に誤解で……!」
俺が逃げるようにその場を離れようとした瞬間——
「ハヤトォォォォ!!」
勢いよく背中を叩かれ、振り返る間もなくテオが飛びついてきた。
「お前あああ!! マジでやったな!! ルミエールの守護者じゃん!!」
「呼ぶなそんなの!!」
「昨日なぁ! 俺、号外三回読んだぞ!?
“彼女を守るために不良を撃退した スーパーヒーローって! おいおい、カッコよすぎだろ!」
「撃退してない! 向こうが勝手に逃げただけだって!」
「ハヤト、俺の目を見て言えよ」
「なんでだよ!」
「『エレナは俺が守る』って言ったろ? 絶対言ってるよな?」
「言ってねぇ!」
「じゃあ『後ろに隠れてろ』は? これは言っただろ?」
「それも言ってねぇ!!」
「うそだぁぁぁぁ!!!」
廊下中にテオの声が響く。
学生が一斉にこっちを見る。
「ちょ、テオ! 声でか……」
「俺は感動して泣く用意までしてたのにィィ!!」
「勝手に泣く準備すんな!!」
そこへ、冷たい声が落ちてきた。
「はい、そこまで。まったく……朝から騒ぎすぎ」
腕を組んだエマが近づいてくる。
その目は怒ってはいない——が、怒ってる時の目だ。
「ハヤト、昨日の件で調子に乗るつもりなら言うけど、許さないから」
「乗らないよ! そもそも乗れる内容じゃないし!」
「ならいいわ。あなた、今日実習で循環器担当なんだから。気を抜いたら承知しない」
その言い方は厳しいが、ちゃんと俺を心配している声だ。
こういうところがエマらしい。
だがテオは止まらない。
「エマー! ハヤトは昨日“決めた”んだよ! 恋人を守った男だよ!?
なあハヤト、エレナちゃん惚れ直してただろ絶対!」
「うっ……」
「あっ、図星ね」
「図星だね」
二人がハモる。
「ち、違うって……!」
「違わないわよ。エレナちゃん、昨日あなたにくっついてたんでしょ?」
エマが悪い顔をしてくる。
「そ……それは……」
「ほら見た、テオ。赤い」
「ほんとだ!! ハヤト照れてるの久しぶりに見たー!!」
「照れてねぇ!!」
……声だけ聞いたら、完全に照れてた。
さらに追い打ちのように、廊下の奥から学生の群れが押し寄せてくる。
「キサラギ先輩ー! インタビューお願いします!」
「昨日の再現シーン見せてください!」
「護身術教えてほしいです!!」
「やべっ……! 本当に来た……!!」
俺は鞄を抱えて走り出した。
「ハヤトォォ! ヒーローは逃げるなぁぁぁ!!」
「黙れぇぇぇテオォォ!!」
テオの爆笑とエマの呆れ声が後ろから追いかけてくる。
階段を駆け下りながら、俺は心の中で思う。
俺はヒーローなんかじゃない。
ただの医学生で、ただ——
守りたいと思った人がいて。
その人の震えが止まるまで抱き寄せただけだ。
でも、胸の奥が少し誇らしいのは確かだった。
……まあ、新聞部の盛りすぎは絶対に抗議するけどな。
そう心に決めながら、俺は今日も全力で校舎を走り抜けていった。




