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第34話 初デートと都会のトラブル

週末の午前、寮の中庭は静かで、まるで今日が特別な日だと知っているかのように穏やかだった。

 落ち着いた陽ざしと、風に揺れる葉の音。

 その静けさとは裏腹に、俺の胸の中だけが落ち着かず、ずっとそわそわと跳ねていた。


 ――恋人として、初めてエレナを連れて街に出る。


 この事実が、こんなにも俺を緊張させるなんて思わなかった。

 靴紐を結び直そうとして、手が震えて三回やり直した時点で、もう自覚せざるを得なかった。


 深呼吸をしても、鼓動の速さは変わらない。

 でも、それは不安じゃなくて……たぶん幸せに近い緊張だ。


「にぃに……お待たせ」


 玄関の影から出てきたエレナは、いつもより少し髪を整えていて、控えめに結んだリボンが揺れた。

 服はいつもの中等部のものなのに、それだけで胸がぎゅっとなるほど可愛く見えた。


「似合ってる。……行くか。デート」

 そう言った瞬間、声が少し掠れて、自分でも驚いた。


 エレナは顔を赤くし、俺の袖を指先でつまんだ。


「……うん。にぃにとデートできるの、嬉しい」


 その一言だけで、胸が熱くなる。

 孤児院で泣き虫だったあの子が、今こうして俺を恋人と呼べる場所にいる――その事実が、どうしようもなく愛しい。


 街へ向かう坂道を降りると、人の波が一気に迫ってきた。

 休日の中心街は、眩しいほど賑やかだ。


「すごい……人がいっぱい……!」

「迷うなよ。俺の手、離すな」


 そう言ってエレナの手を取った瞬間、軽く震える小さな指が俺を握り返してきた。

 その震えさえ、抱きしめたくなるほど愛おしい。


 すれ違う人たちの会話が聞こえてくる。


「可愛い〜〜」「兄妹?」「え、恋人じゃない?」

 その声が刺さるたび、エレナが俺の腕に体を寄せ、俺は顔が熱くなる。


「にぃに……ほんとに赤いよ?」

「そりゃ……恥ずかしいよ。知らない人にああ言われたら」


 正直、赤面どころじゃなかった。

 エレナのことになると、どうしてこんなに動揺するのか自分でもわからない。

 でも同時に、隣を歩くこの幸福を誰にも奪われたくない、と強く思っていた。


 雑貨屋でヘアピンを見せると、エレナは小さく「かわいい……」と声を漏らし、カフェのショーウィンドウに貼りつくようにケーキを眺めた。

 その度に、胸の奥がきゅっと締まって、こんな日がずっと続けばいいのにと本気で思った。


 だけど、賑やかさの裏には影もある。

 通りを一本外れた瞬間、空気が重たくなった。

 建物の影が深く、昼なのに少し薄暗い細い路地だった。


「にぃに……ここ、やだ……」

「平気だ。すぐ抜ける。俺のそばにいろよ」


 そう言って手を離したのは、水を買うための数秒だけだった。

 ほんの数秒。

 その短さを、俺は一生忘れない気がする。


 ――その瞬間、不良の影がエレナに近づいた。


「おいおい、可愛いじゃねぇか。ひとり?」

「っ……や、やめてください……!」


 エレナの怯えた声に、全身が固まった。

 次の瞬間には、もう走り出していた。


「触るな!!」


 頭の中が真っ白になるほど怒りが沸いた。

 護身術なんて稚拙な知識しかない。

 でも今は技じゃない。必死だった。


 腕を掴もうとした男の手を力任せに払うと、筋が軋む感覚が走り、それなのに体勢を崩した相手を見る余裕すらなかった。

 別の男が拳を振りかざし、俺はそれを腕で受けた瞬間、皮膚の下がじんじんと熱く痛んだ。

 反射で脚を払うと、そいつの身体が倒れ込み、乾いた音が路地に響いた。


 気づけば呼吸が荒くなり、喉が痛いほど息が乱れていた。

 手の震えが止まらなかった。

 怖かった。本当に。

 間に合わなかった未来を想像して、一瞬で吐き気すら覚えた。


「にぃに……っ、にぃに……!!」

 泣きじゃくるエレナが胸に飛び込んできた。


「大丈夫だ……もう、俺がいる……怖い思いさせてごめんな……」

 抱きしめながら言った声は、震えていて、言葉にならないくらい胸が痛かった。


 エレナの肩が小刻みに震えるたび、俺の中で後悔と怒りと安堵がぐちゃぐちゃに混ざった。

 さっき受けた打撲がじんじんと痛み、腕は少し腫れ始めていた。

 けれど痛みより、エレナの涙の方が胸に突き刺さった。


「……にぃに、ほんとに来てくれて……っ、ありがとう……」

「当然だ。……俺はエレナの恋人だ。守るのは……当たり前だよ」


 言い終えた瞬間、胸の奥がじんわりと熱くなった。

 エレナが涙を拭いながら、弱々しく笑った。


「……恋人……だもんね……」


 その一言が、世界で一番愛しいものに思えた。


 俺はエレナの手を握り、もう二度と離すまいと心に誓った。

 痛む腕をかばいながら大通りへ戻る道すがら、エレナはずっと俺の袖を握って離さなかった。


 その小さな手が震えるたび、胸の奥で何かが強く、確かに刻まれていった。

 ――もう、絶対に守る。

 今日の痛みも恐怖も、その決意のためなら安いものだ。

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