第33話 告白のカルテ
病院棟へ続く渡り廊下は、昼間でもどこか薄暗く感じる。
アカデミーの校舎とは違う、静けさと緊張に満ちた空気。
足を踏み入れようとした瞬間、その道を塞ぐ影があった。
マルクス。
彼は壁にもたれ、腕を組んだまま、まるでここで俺が来るのを何時間も待っていたかのような姿勢で立っていた。
目が合った瞬間、その鋭い視線に体温が一度下がるような感覚が走る。
「……ハヤト・キサラギ。君にエレナに会う資格はない」
冷たい言葉は、静寂の廊下に硬く響いた。
「資格なんて、誰が決めるんだよ」
反射的に口が動いたが、声が少し震えているのが自分でも分かった。
マルクスは眉一つ動かさず、淡々と続ける。
「決めるさ。少なくとも俺は、君がエレナを振り回しているようにしか見えない」
胸の奥が痛んだ。
否定できない。
歳の差を理由に、気持ちの整理を後回しにしていたのは事実だ。
でも、それでも――。
「俺は……やっと向き合う覚悟ができたんだ。
あいつの病気からも、歳の差からも、全部から。ここで止まったら、また逃げる」
マルクスの視線が細くなる。
その目には、厳しさと、わずかな怒りと、それ以外の何か――心配にも似た色が混じっていた。
「覚悟? そんな曖昧な言葉、患者の前で言うな。医療者なら――」
「医療者だから、行くんだよ」
自分でも驚くほど、強い声が出た。
エレナの顔が脳裏に浮かぶ。
あの笑顔。細い手。弱さと強さが同居した瞳。
「エレナは患者だけじゃなくて……大事な人なんだ。
俺は、大事な人から目をそらす医者になりたくない」
マルクスの呼吸が一瞬止まったように見えた。
廊下の空調音だけが、やけに大きく耳に残る。
「……ずいぶん、甘いな」
「甘いかもしれない。でも、それが俺だよ。逃げながら医者になるより、ずっといい」
沈黙が落ちる。
マルクスは視線を下に落とし、深く息を吐いた。
そして――ゆっくりと横に退いた。
「……ならば好きにしろ。ただし、傷つけるような真似をすれば、君を医療者として認めない」
その言葉には、脅しではなく、本気の覚悟が宿っていた。
「そんなつもりはない」
俺がそう答えると、マルクスは軽く顎を引き、通路を開けた。
「行け。……彼女はずっと、君を待っている」
その一言が胸に染みた。
逃げていた自分への、痛烈な痛みと救いのように。
俺は深く頭を下げ、病院棟へ歩き出した。
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■病室の前 ― 扉の向こうにある答え
病院棟は静かで、どこか白すぎる空間だった。
消毒液の匂いが薄く漂い、足音がやけに響く。
病室の前に立つと、急に心臓が跳ねる。
ノックをする手が小さく震え、それを隠すために一度、深く息を吸った。
覚悟はある。
でも、怖くないわけじゃない。
それでも――。
扉をノックし、ゆっくり開いた。
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■病室の光の中で
「……ハヤトにぃに?」
ベッドの上でエレナが少し身体を起こし、こちらを見た。
窓から差し込む柔らかな光が彼女の銀色の髪を照らし、薄い影を布団の上に落としている。
点滴のチューブが腕から伸びているのが一瞬だけ胸を締めつけた。それでも、エレナは笑っていた。
いつものように、優しくて、強い笑顔で。
「体調は?」
「うん、今日は大丈夫だよ。先生がね、“ちょっと疲れたみたいだから安静にね”って」
そう言いながら、じっと俺の顔を見つめる。
「……ねぇ、ハヤトにぃに。顔、赤いよ?
なんかあった?」
無邪気な問いかけに胸が詰まる。
こんなふうに心配してくれることさえ、これまで素直に受け取れなかった。
「怒ってないよ。むしろ……俺の方が、ごまかしてた」
ゆっくりベッドの横に腰を下ろす。
エレナの手は、小さくて温かい。
その手を握った瞬間、心の奥で何かがやっと定位置に戻った気がした。
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■言葉にするということ
「エレナ。俺さ……ずっと歳の差を理由に逃げてた。
お前の気持ちが分かってるのに、答えるのが怖かった」
「……うん」
エレナは瞬きも忘れるほど真剣な眼差しで聞いてくれている。
その姿が、余計に胸を締めつけた。
「でも今日、はっきり分かった。
俺は……エレナが好きだ。
大事だからこそ、怖かったんだ。でも、逃げるのはもうやめる」
エレナの瞳が大きく揺れ、潤む。
涙が一粒、布団に落ちた。
「……エレナも……ずっと言いたかったのに……言えなかった……」
「言わなくていいよ。今わかったから、それで十分」
「だって……ハヤトにぃにに嫌われたら……生きていけないもん……」
刺さるような、でも真っ直ぐな言葉に、胸がいっぱいになる。
「嫌わない。
エレナが隣にいたいって言ってくれるなら、俺は何度でも答える。
これからはちゃんと向き合うよ」
エレナは涙を拭いながら、震える笑顔を見せてくれた。
「……じゃあ、約束して。
エレナの病気が治ったら……いっぱい……ハヤトにぃにと一緒にいたい」
「約束する。
だから一緒に頑張ろう」
手と手が重なり合う。
それは派手でも劇的でもない、静かだけど確かな約束だった。
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■廊下の影 ― その背中に恥じないように
病室を出ると、廊下の先にマルクスの姿があった。
腕を組み、壁にもたれたまま微動だにしない。
でも、その瞳はさっきよりわずかに柔らかかった。
「終わったか」
「ああ」
「君の覚悟、確かに見届けた。
だが責任は伴う。医療者として、そして彼女の支えとして、軽い気持ちでは許されない」
「分かってる。それでも……エレナと未来を見たい」
マルクスは短く頷いた。
その背中には、厳しさと同時に、医療者としての深い覚悟が見えた。
「ならば努力しろ。あの子の心臓は、君が考える以上に繊細だ。
……後悔するような生き方だけはするな」
「絶対にしない」
俺はその背中を真っ直ぐに見つめた。
エレナと過ごす未来のために。
そして、自分が胸を張れる医療者になるために。
もう逃げない。




