第25話 深夜の勉強会
深夜の獅子寮は、外の静けさがそのまま建物全体を包み込んでいるようだった。風の音ひとつしない。寮生たちが眠りについてから数時間が経つと、廊下に残されていたわずかな気配さえ霧散してしまう。
そんな静寂のただ中、談話室だけがぽつりと灯りを灯し、机の上には教科書とノート、付箋、そしてテオが「頭を動かす燃料だ」と言って持ち込んだ菓子袋の残骸が散らばっていた。
俺――ハヤト・キサラギは、その中央に座り、分厚い心臓学の教科書に赤い下線を引きながらため息をついた。深夜というだけで集中力が落ちているわけじゃない。むしろ、静けさはありがたい。でも、問題は別のところにある。
……いや、問題はほとんどテオだな。
エマは真剣にノートをまとめている。俺と同じで、勉強会になると集中モードに入るタイプだ。
しかし、視線を左に向ければ、テオがペンを持ったまま頬をぷくっと膨らませ、何かを咀嚼している。こっちはこっちで集中してるつもりなのかもしれないけれど、方向性が毎回斜め上だ。
「よし、じゃあ次行くぞ。ここ、三尖弁の……」
俺が問題を読み上げた瞬間、テオが手を勢いよく挙げた。
この勢いは、だいたい嫌な予感しかしない。
「はいはいはい!これは絶対当たってる!」
「……聞いてからでも遅くないだろ。」
「今言わないと忘れるんだって!」
忘れるスピードだけは驚異的だと自覚しているらしい。
俺は苦笑しながら頷いた。
「じゃあ言ってみろよ。」
テオは胸を張り、得意満面で答えた。
「三尖弁は、心臓の“裏口”――!」
その瞬間、談話室にいた俺とエマの思考が同時に止まった。
エマはゆっくりとペンを置き、眉間を指で押さえる。
「……テオ。裏口って、あなた心臓を何だと思ってるの?」
「えっ?だって入口と出口があるなら、裏口もあるでしょ?」
「無いわよ。心臓はレストランじゃないの。」
「いやいや、ほら、血液がスッと入ってスッと出ていくわけだからさ。なら裏口も――」
「だから!血液は料理じゃないの!」
エマの声が少しだけ大きくなった。深夜だから抑えてはいるが、明らかに呆れと苛立ちが混じっていた。
俺は笑いを堪えながら、二人の間に割って入った。
「テオ、三尖弁は逆流を防ぐための弁だよ。右心房から右心室へ流れる血液が戻らないように、“閉じる”役目があるんだ。」
「なるほど、入り口の管理職ってやつだな!」
「……なんでそこで会社になるんだ。」
「じゃあ、僧帽弁は部長で、肺動脈弁は課長で――」
「全部ブラック企業の階層みたいになるからやめてくれ。」
俺は本気で頭を抱える。
エマは呆れを超えて、もう笑ってしまっていた。
「あなたの頭の中、一度覗いてみたいわ。絶対混沌としてる。」
「いや、意外と整理されてるんだって!昨日なんか、部屋片付けたもん!」
「あなたの場合、片付けた部屋が翌日には“災害”みたいになるから信用できないの。」
「ひどっ!俺の尊厳がボロボロ!」
「尊厳を守りたいなら、まず三尖弁を裏口呼ばわりするのをやめてほしい。」
「うぐ……」
言い返せず、テオが口を閉じる。その顔がまた面白くて、俺とエマは思わず含み笑いをしてしまった。
……こうして見ていると、ほんと飽きない二人だ。真面目なんだけど、どこか噛み合ってない。でも、それがいい。
エレナのことを考えたとき、胸の奥が苦しくなることがある。
そんなとき、こうして笑いながら勉強できる時間は救いだった。
「じゃあ、次は心不全の悪化因子。テオ、これは大丈夫か?」
俺が念を押すように聞くと、テオは自信満々で拳を握った。
「任せろ!完璧に覚えた!」
エマが疑いのまなざしを向ける。
この二人の視線のぶつかり合いは、もはや恒例行事だった。
「じゃあ言ってごらんなさい。今度は本当に合ってるのよね?」
「もちろんだよ!心不全の悪化因子は……」
一拍置いて、テオが胸を張った。
「“寝不足と食べすぎ”!」
「ちょっと待って!」
エマが即ツッコミを入れ、俺は机に額を落としそうになった。
「テオ、それ教科書の内容じゃなくて、あなたの生活習慣よ!」
「えっ……でも、悪化しそうじゃない?」
「論点が違うのよ……!」
エマが頭を抱え、俺は肩を震わせる。
テオはそれでもめげず、ペンを持ったまま続けた。
「でもさ、寝不足って良くないでしょ?食べすぎもダメでしょ?だったら悪化因子だよ!」
「論理の飛躍がすごいんだよ、お前は……」
俺が呆れながら言うと、テオは悔しそうに唇を尖らせた。
「じゃあ、正解は?」
「感染、過労、塩分過多。あと薬の不遵守とか色々だよ。」
「なんだよ複雑だなぁ……俺の方が覚えやすいのに!」
「覚えやすいかどうかじゃないの。正確さが大事なの。」
エマは少し語気を強めながらも、ノートをトントンと指で叩く。
テオはしゅんとしたが、すぐにまた元気そうに顔を上げた。
「まぁ、エマが教えてくれるなら覚えるよ!」
「……あなた、褒めてるようで人任せね。」
「でへへ。」
エマは顔を覆った。
その反応に、俺の胸の奥にじんわり温かさが広がる。
こうして三人で勉強できるのが、なんだかすごくありがたい。
エレナのことを思えば焦りはある。けれど、ひとりで突っ走るだけじゃダメだ。俺を支えてくれる存在のありがたさを、今夜ほど感じることはない。
「……よし、仕切り直しだ。」
俺は姿勢を正し、二人の顔を見た。
「あともう少し頑張ろう。テオも、変な例えは禁止な。」
「えっ、あれ俺の持ち味じゃん!」
「持ち味は別の時に出せ。」
「むぅ……」
「テオ、ハヤトの言うこと聞きなさい。じゃないと試験で惨敗するわよ。」
「エマが言うなら聞く!」
「なんで私だけ特別扱いなのよ……」
「そりゃあ――」
「言わなくていいわ!」
また口喧嘩が始まりそうになったので、俺は咳払いして強引に話題を戻した。
深夜の談話室は静かだが、俺たち三人の声は温かく響いていた。
明かりの下で机を囲むこの時間は、きっと将来振り返っても忘れない。
少し騒がしくて、でも確かに前へ進んでいく――そんな夜だった。




