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第24話 束の間の休息

朝の空気は、こんなにも冷たく澄んでいたのか。

 窓の取っ手に触れた指先に、金属のひやりとした感触が吸い付く。ゆっくり押し上げた瞬間、乾いた風が流れ込み、肌を刺すような冷気で頬が引き締まった。


 その冷たさが、逆に胸の奥を静かに落ち着かせていく。

 深く息を吸うと、ほのかに土の匂いがした。落ち葉が砕け、風に混じって運ばれてくる、冬が近づくとき特有の匂い。

 思わず窓の向こうの空を仰ぐ。雲ひとつない。限りなく澄みきっていて、吸い込まれそうなほど青い。


 ――今日なら、いけるかもしれない。


 その予感が心臓をひとつ、強く叩いた。



 午前の講義は、正直言ってほとんど耳に入っていなかった。

 教授のチョークが黒板を走るたびに、粉が白く舞う。

 「先天性心疾患における血行動態」という今日のテーマは、本来なら俺がもっとも集中しなければならない分野だ。

 なのに、視界の端で揺れる白い粉が雪のように見えて、そちらにばかり意識が引き寄せられる。


 ――いや、違う。

 本当は、朝からずっとエレナのことばかり考えているせいだ。


 廊下に出ると、風が抜けたように肩が軽くなる。

 講義が終わった瞬間、俺の足は自然と病棟へ向かっていた。


 今日、エレナの体調がいいという保証なんてどこにもない。

 ただ、胸の奥の直感が「行け」と背中を押していた。

 あの澄んだ空気の中に、エレナを連れ出せたなら――。

 そんな想像が心臓をざわつかせ続けていた。



 自動ドアが開くと、消毒液の匂いが鼻を刺した。

 病院特有の清潔な匂い。

 そしてその奥に、患者たちの小さな呼吸が折り重なっている気配。


 ここは生と死がすぐ隣り合う場所だ。

 その空気を吸い込むたび、背筋が伸びる。


 エレナの病室の前に立つ。

 胸の鼓動が、まるで外に漏れ出しそうだった。

 いつもより緊張している。理由は分かっている。


 ノックすると、澄みきった声が返ってきた。


「どうぞ。」


 扉を開けた瞬間、胸がふっと軽くなる。

 エレナが、窓辺の光の中でこちらを見て笑っていた。


 光に溶けてしまいそうなほど柔らかい、穏やかな笑み。

 金色の髪が陽を受け、細い糸のように輝いている。

 その姿を見ただけで、喉の奥が熱くなった。


「今日ね、調子がいいの。」


 その言葉は、この上なく嬉しい報告だった。


「じゃあさ……外、行ってみるか。無理は絶対しないって条件で。」


 言うと、エレナは少し驚いて、それから静かに、ゆっくり笑った。


「うん。行きたい。」


 その声を聞いただけで心臓が跳ねる。

 自分でも驚くほどだった。



 上着を肩にかけてやり、一歩ずつゆっくり立ち上がるのを見守る。

 支えた手は驚くほど軽かった。指先の熱が弱々しくて、それでも確かに温かくて、俺はその温度を失わないように指に力を込めた。


 病棟の廊下を歩くと、エレナの呼吸が少し早くなる。

 緊張しているのか、それとも外の空気を想像してわくわくしているのか。

 そのどちらとも分からない微妙な揺れが、腕を通して伝わってくる。


 本当なら、まだ外に出すことを医師が許す段階ではないのかもしれない。

 でも、今日のこの空を見た瞬間、胸の奥の迷いがひとつ消えた。


 ――この子にも、この光を感じてほしい。


 その願いが、俺をここまで連れてきた。



 中庭への自動ドアが開く。

 冷たい風が頬を刺した。

 空気が一気に変わる。

 分厚いフィルター越しの世界から、直接の自然へ。


「……わぁ。」


 エレナが小さく声を漏らした。

 その声には、驚きと喜びと不思議さが混じっていた。

 その一音だけで胸が震えた。


 彼女は空を見上げ、風に髪を揺らしながら息を吸い込む。


「風の匂い……病室とぜんぜん違うんだね。」


「そうだよ。」

 俺の声が少し低くなった。

「外の空気は、いつだって生きてる。」


 エレナはゆっくりと、何度も何度も深呼吸をした。

 そのたびに、胸が上下するたびに、俺まで息が深くなる。


 二人並んでベンチに腰を下ろすと、エレナは自然と俺の隣に寄ってきた。

 肩が、かすかに触れている。


 その熱が、予想以上に強く心臓を刺激した。

 胸がぎゅっと縮み、息が浅くなる。

 こんな小さな接触だけで、体の中心が熱くなるなんて。


「ハヤト。」

 エレナが俺の袖をそっと掴んだ。

「わたし……今日、来てよかった。」


「ああ。」


 本当はもっと言いたいことがあるのに、声にできない。

 胸の奥がじんじんして、言葉を溶かしてしまう。


 俺はタブレットを取り出し、脈拍や呼吸のリズムを確認する。

 安定している。胸の動きにも無理はない。

 ほっとした途端、力が抜けそうになった。


 そのときだった。

 エレナが顔を寄せ、小さな声で言った。


「ねぇ……ハヤトといるとね。胸がぎゅってするのに、不思議と安心するんだ。」


 その言葉は反則だった。

 まるで心臓を素手で掴まれたみたいで、呼吸が止まりそうになる。


 気づけば、俺は腕を伸ばしていた。

 ゆっくり、そっと、エレナを抱き寄せる。


 軽い。

 驚くほど軽くて、抱きしめるのが怖いくらいだ。

 けれど腕の中は、確かに生きている温度で満たされていた。


「少しだけ……このまま。」


「……うん。」


 エレナの頭が俺の胸に触れ、呼吸の振動が伝わる。

 細く弱い呼吸なのに、俺にはそれがとても力強く感じられた。


 抱きしめているあいだ、俺はずっと思っていた。


 ――もし、こんな未来が続くなら。

 ――もし、エレナがいつか、自由に外を歩けるようになったら。


 そのために、俺は医学を選んだ。

 彼女を救いたい。ただそれだけの理由で。


 腕の中の温もりは、俺の決意を何度でも新しくしてくれる。



 そっと身体を離すと、エレナが少し恥ずかしそうに笑った。

 頬が微かに赤い。

 その表情を見るだけで胸がまた締まる。


 額に口づけると、エレナは目を丸くし、それからゆっくり微笑んだ。


「……ありがとう、ハヤト。」


 その一言で、今日という日が全部報われた気がした。


「そろそろ戻ろうか。冷える前に。」


「うん。また……連れてきてね。」


「もちろん。」


 手を繋いで歩く。

 エレナの手はまだ頼りないほど軽い。

 でも、その温度は確かに未来へと続いている。


 病棟へ戻るその道すがら、俺は強く、静かに誓った。


 ――いつか必ず、エレナが自分の足で好きな場所へ行けるようにする。

 ――その未来を、俺がこの手でつくる。


 光のように儚い少女の笑顔を、何があっても守るために。


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