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第23話 初めての実習

白衣の袖を通す瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられた。

 今日から実習が始まる――しかも、俺が最初に担当する患者は、エレナだ。幼い頃から心疾患と闘いながら、いつも笑顔を絶やさない彼女。俺はその小さな命の一部を託される立場にいるのだ。


 廊下を歩きながら、心臓の高鳴りを抑えようと深呼吸する。もし判断を誤れば、エレナの症状を悪化させるかもしれない。データは揃っている。夜間のSpO₂の変動、早朝の脈拍の乱れ、過去数週間のオンライン診療記録――どれも些細な違いが重要な手がかりになる。だが、それをどう読み解くかは、結局俺次第だ。


 獅子寮の仲間たちの声が背後から聞こえる。テオの軽口に少しだけ肩の力が抜ける一方で、エマの言葉が冷静に胸を締めつける。「緊張感は正しい。患者の命を扱う感覚は、怖いほど正確な判断力につながる」と。確かにそうだ。恐れと集中力は、裏表の関係にある。俺は両方を胸に抱え、診察室の扉に手をかけた。


 ノックをして扉を開けると、エレナが笑顔で振り向いた。瞳に信頼が宿る。胸が熱くなると同時に、冷静さも強まる。彼女を守るために、今ここで正確に診る必要がある。


 診察台に座ったエレナを前に、俺は問診を始めた。「最近、朝に息が上がることは?」

 彼女は小さく頷きながら答える。「少しだけ。でも我慢できる程度です」

 その言葉に、一瞬胸がざわつく。“我慢できる”は医療現場では危険信号だ。少しの変化でも見逃してはいけない。だからこそ、目を細め、肩の緊張具合、胸郭の拡張度、呼吸の浅さまで観察する。データだけでなく、身体全体が発するサインを、俺は読み取ろうとしていた。


 「少し深呼吸して。聴診する」

 聴診器を胸に当てると、規則正しい心音と、呼吸の微細な乱れが伝わる。拡張期に微弱な逆流音があり、心拍間隔もわずかに変動している。夜間の低酸素と関連している可能性がある。胸壁の振動から心室壁の収縮パターンを頭の中で再構築し、データと照らし合わせる。この瞬間、俺の観察力が医療としての判断に変わる。


 脈を取ると、触感からも微細な不整脈が感じられた。夜間に顕著な乱れが日中にも少し出ている。こうした情報はカルテだけではわからない。触れ、聴き、観察した結果を頭の中で整理して診断の優先度を瞬時に決定する――これが俺の独自視点だ。


 「エレナ、夜間や早朝に症状が出る時は必ず教えて。小さな変化ほど重要だから」

 彼女は少し頷き、信頼のまなざしを向ける。その瞳の光が、緊張で硬くなった俺の心を少しずつ溶かしていく。


 診察を終えると、カルテに向かい、手の震えを抑えながら初めての診断を入力する。


 ――早朝・夜間に軽度の呼吸苦。心拍リズムに不整傾向あり。聴診で微弱な僧帽弁逆流音。夜間モニタリング継続、必要に応じてβ遮断薬微調整、心エコー再検討推奨。


 文字列の一つひとつが、観察と推論の集大成だ。画面を前に深呼吸すると、肩の力がようやく抜けた。だが、気持ちは引き締まったままだ。エレナの命に関わる判断を下したのだから、安堵だけで満足するわけにはいかない。


 振り返ると、エレナが不安そうに手を握っている。「ハヤトさん……そんなに苦しそうな顔、しないでください」

 その手の温もりから、呼吸の微細な震えまで感じ取れる。胸が締めつけられるが、冷静さも必要だ。医療現場は、感情だけでは乗り越えられない。


 「ごめん、真剣に考えてたから」

 俺は視線を逸らさず、カルテで得た情報と身体からのサインを整理しながら言う。「もっと勉強する。観察して、推論して、エレナが“治る”と自信を持って言える日まで、諦めない」


 彼女は微笑む。信じてくれている。それだけで胸が熱くなると同時に、冷静さも保たれる。


 診察室を出ると、テオとエマが待っていた。

 テオの陽気さ、エマの穏やかな励まし。二人の存在が、俺の肩にかかっていた緊張を和らげる。医療は孤独ではない。信頼してくれる仲間と、患者の信頼がある。だからこそ、俺は何度でも立ち向かえる。


 心臓の微かな鼓動を聴きながら、胸に決意が灯る。

 ――エレナの未来を守るために。小さな命の一つひとつの音を、絶対に聞き逃さないために。

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