第23話 白衣デビュー、担当患者が大切すぎる件
白衣の袖を通した瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
布が腕に触れるだけで、これまでとは違う責任の重さが、じわりと伝わってくる。
今日から臨床実習。
学生としてではなく、医療者の一員として患者に向き合う最初の日だ。
しかも、俺が最初に担当する患者は――エレナ。
幼い頃から心疾患を抱え、入退院を繰り返してきた少女。
それでも彼女は、病室で会うたびに太陽みたいな笑顔を向けてくれる。
(……まさか、最初の担当がエレナになるとはな)
胸が熱くなると同時に、冷静さを失ってはいけないと自分に言い聞かせる。
情は判断を鈍らせる。だが、情を排除しすぎれば、命の声を聞き逃す。
――その両方を抱えたまま、前に進め。
廊下を歩きながら、これまで集めたデータを頭の中で整理する。
夜間のSpO₂低下。早朝に目立つ脈拍の乱れ。
オンライン診療の記録に残された、わずかな自覚症状の増減。
どれも、単体では「様子見」で済まされかねない数値だ。
だが、重ね合わせれば、確かに一つの傾向が浮かび上がる。
(見逃すな。小さな違和感ほど、命に近い)
背後から聞こえてきた声に、思考が一瞬だけ現実へ引き戻された。
「いや〜、初実習でいきなり担当患者って、ハヤト持ってるよな!」
テオのいつもの軽口だ。
「笑ってる場合じゃないでしょ。でも……緊張してる顔は悪くないわ」
エマが穏やかに続ける。
「怖さを知ってる人の判断は、たいてい正確よ」
その言葉に、胸の奥が静かに整っていく。
そうだ。俺は怖い。
だが、それは逃げたい恐怖じゃない。
守るための恐怖だ。
診察室の前に立ち、深く息を吸う。
ノックをする手に、震えはない。
「失礼します」
扉を開けた瞬間、ぱっと視界が明るくなった。
「はやとにぃにー!!」
ベッドに腰かけたエレナが、両手を大きく振っている。
点滴スタンドの横で、足をぶらぶらさせながら、満面の笑顔だ。
「白衣だ!白衣!ほんものだ!」
「……うん。今日から実習だからな」
思わず口元が緩みそうになる。
だが、気持ちを引き締める。
彼女の前に立つ俺は、もう“見舞いに来るお兄さん”じゃない。
「今日は体調をしっかり確認する。いつもより丁寧に聞くけど、いいか?」
「いいよ!エレナ、なんでも言う!」
その即答に、胸が少し痛む。
“なんでも言う”という言葉ほど、医療現場では危ういものはない。
「じゃあ、最近の朝。息が苦しくなることはある?」
「んー……ちょっとだけ!」
明るい声。
だが、その“ちょっと”を、俺は聞き逃さない。
「どのくらい?」
「えっとね、階段のぼるときとか!でも休んだらへーき!」
(休めば平気、か……)
「我慢してる?」
「……ちょっとは!」
やっぱりだ。
俺は何も言わず、エレナの姿勢を観察する。
肩の位置、呼吸の深さ、胸の上下。
「深呼吸しよう。にぃにの真似して」
一緒に呼吸を合わせながら、聴診器を当てる。
規則正しい心音の奥に、微細な乱れ。
拡張期に混じる、かすかな逆流音。
(夜間の低酸素と一致する……)
脈を取る。
指先に伝わる、わずかな不整。
数値には出にくい。
だが、確実に“変化”だ。
「ねえ、はやとにぃに」
「どうした?」
「そんなこわい顔しなくていいよ?エレナ、だいじょうぶだから!」
その言葉に、胸がきゅっと締めつけられる。
この子は、いつもそうだ。
自分より周りを安心させようとする。
「ありがとう。でも、にぃにはちゃんと考えなきゃいけない」
「ふーん……じゃあ、がんばってる顔だね!」
思わず、小さく笑ってしまった。
診察を終え、カルテに向かう。
画面に映る入力欄が、やけに重く見えた。
――俺の判断が、これからの治療方針を左右する。
呼吸を整え、文字を打ち込む。
早朝・夜間に軽度の呼吸苦。
心拍リズムに不整傾向。
聴診で微弱な僧帽弁逆流音。
夜間モニタリング継続、薬剤調整検討。
入力を終えた瞬間、肩から力が抜けた。
だが、気持ちはむしろ引き締まっている。
振り返ると、エレナがこちらを見ていた。
少しだけ、不安そうに。
「ねえ……はやとにぃに。エレナ、へん?」
「いいや。ちゃんと分かっただけだ」
「ほんと?」
「ああ。だから、これからもっと良くなる」
その言葉に、エレナはぱっと笑った。
「じゃあ、エレナもがんばる!」
その笑顔を見て、胸の奥で確信が生まれる。
――俺は、この仕事を選んでよかった。
診察室を出ると、テオとエマが待っていた。
一人じゃない。
仲間がいる。患者がいる。
心臓の鼓動を感じながら、俺は静かに誓う。
倒れない。
迷わない。
この小さな命の声を、絶対に聞き逃さない。




