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第20話 ただ前だけ向いて

夜明け前の医療棟は、まるで時間が止まったように静まり返っていた。

薄寒い静けさが、いつもの場所をまるで別世界のように感じさせる。

歩くたび響く靴音に、自分がこの空間でひとりきりにされたような錯覚が胸に刺さった。


――本当に、こんなに静かだったか。


不安は昨日も、一昨日もあった。

けれど今日のそれは、胸の奥を締めつけるほど鋭い。


扉の前に立ち、手を伸ばそうとした指がかすかに震える。


――大丈夫だ。まだ、折れてはいない。


そう言い聞かせ、そっと扉を開けた。


薄い明かりの差し込む部屋の奥。

エレナが眠っていた。

小さな胸がゆっくりと上下し、そのたびに、俺の喉がぎゅっと詰まる。


彼女が息をしている――ただそれだけのことなのに、そこに至る数秒が恐ろしく長かった。


「……今日も、頑張らないとな」


自分に呟いた言葉は、空気の中で溶けた。


その時、布団がぴくりと動いた。


「……ハヤトにぃに……?」


細い声が、頼るように紡がれる。

まぶたが開き、ぼんやりした瞳が俺を見つけた瞬間――

エレナの顔が、ほどけたように明るくなった。


「……よかった……ほんとに、来てくれた……」


まだ寝ぼけた声なのに、心の奥底から安堵が溢れているのが分かる。

まるで、俺を見つけるまで呼吸を止めていたみたいに。


「起こしちゃった? 悪い、もっと寝ててよかったんだぞ」


「ん……やだよ。ハヤトにぃにの声したら、起きちゃうもん……。来てくれたの分かると、安心するから……」


言いながら、エレナは布団の端をぎゅっと握った。

幼い仕草なのに、その指先は少し震えている。


「ここ、夜はすごく静かで……。だから、ハヤトにぃにの気配すると、すぐ分かるんだよ……」


無理に笑おうとして、うまく笑えていない。

怖さを隠しているのが痛いほど分かる。


そして彼女は端末に手を伸ばしたが、その手が弱々しくて止まりかける。


「授業の準備……? 無理しなくていいんだぞ。今日は――」


「やだ……休んだら、もっと不安になる……。勉強してるとね……ハヤトにぃにと同じ未来を見てる気がするから……」


小さく震える声。

その言葉の奥にあるのは、“頑張りたい”より“置いていかれるのが怖い”という感情だ。


胸が刺されるような痛みが走る。


……俺を支えたいんじゃない。

俺と離れたくないんだ。


そう思った瞬間、言葉が出なくなった。


遠くから足音が響き、緊張を少し溶かす。


「おーいハヤトー! ……ってなんでこんな朝早く――」


テオが勢いよく入ってきて、エマが慌てて制止する。


「テオ! 走るなってば! 医療棟よ!」


ふたりのいつものやり取りに、空気が一気に明るくなる。


エレナもほんの少し笑った。

でも、すぐに俺の袖をつまむ。


離さないように。


「テオくん、今日も元気……いいなぁ……」


ぽつりと言う声は、羨望というより、

“私もあんなふうに笑いたい”という願いのように聞こえた。


エマが分析ノートを渡してくれると、

エレナは小さくこちらを見上げる。


ハヤトにぃにが受け取ったノートを、まるで自分がもらったもののように嬉しそうに見つめていた。


「ねぇ……ハヤトにぃに」


不安を押し殺した声。


「今日も、行くんだよね……。試練……」


「ああ。昨日より厳しいらしい。だけど――」


“でも大丈夫だ”と言いたい。

なのに喉が詰まる。


その沈黙を埋めるように、エレナがぎゅっと布団を握る。


「……帰ってきてね。絶対。

 ハヤトにぃにいない夜、すごく……すごく怖かったから……」


その言葉は、胸の奥を引きちぎるように刺さった。


「……必ず戻る。エレナ。約束だ」


そう言うと、エレナは小さく息を吐き、

安心したように微笑んで――そのまま俺の袖を握ったまま離さない。


「いってらっしゃい……ハヤトにぃに……

 ……はやく、戻ってきてね……」


甘えるようなその声が、背中にずっと張りついてくる。


深く息を吸い、吐く。


――大丈夫じゃなくても、進むしかない。

この先に彼女の未来があるのなら、何度だって挑む。


震えていてもいい。

弱くてもいい。

エレナを救う未来を掴むために、仲間とともに歩き出した。

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