第20話 不安を置いて、俺は今日も現場へ行く
夜明け前の医療棟は、音という音を吸い込んだように静まり返っていた。
眠っているというより、ただ息を潜めている。
そんな表現のほうが、今の空気には近い。
白い廊下を進むたび、靴底が床を叩く音がやけに大きく響く。
無意識に歩幅を一定に保ちながら、俺は前を向いた。
――静かすぎるな。
昨日も、同じ時間にここを歩いた。
その前の日も、その前も。
何かが変わったわけじゃない。
なのに、今日は胸の奥に重たいものが溜まっている。
理由は分かっている。
エレナの容体が、決して「安心できる段階」ではないからだ。
医療に関わる人間として、状況を冷静に把握している。
数値も、所見も、説明できる。
それでも、頭で理解することと、心が納得することは別だった。
病室の前で、立ち止まる。
深く息を吸い、ゆっくり吐く。
――怖いか?
自分に問いかけて、すぐに答えを出す。
ああ、怖い。
だが、それでいい。
怖くないふりをするのは、簡単だ。
だがそれは、逃げと大差ない。
俺は医療棟の扉に手を伸ばし、迷いなく開けた。
淡い照明に照らされた部屋。
ベッドの上で、エレナが眠っている。
小さな胸が、ゆっくりと上下している。
その動きを確認した瞬間、胸の奥に溜まっていたものが、少しだけ流れ出た。
生きている。
当たり前で、奇跡みたいな事実。
医療の現場にいると、この「当たり前」がどれほど脆いかを、嫌というほど思い知らされる。
「……今日も、忙しくなりそうだな」
独り言は、誰にも届かない。
それでいい。
弱音は、ここに置いていく。
椅子に腰を下ろし、静かに様子を見守る。
すると、布団がわずかに揺れた。
「……ハヤトにぃに……?」
かすれた声。
まだ半分、夢の中だろう。
エレナがゆっくりと目を開ける。
焦点の合わない視線が、少しずつ俺を捉えていく。
そして――見つけた瞬間、ぱっと表情が明るくなった。
「……よかった……ほんとに、来てくれた……」
その笑顔に、胸が痛む。
俺がここにいるだけで、これほど安心させてしまうことが。
「起こしたか? 悪いな。もう少し寝ててよかったんだぞ」
「ううん……。ハヤトにぃにの声、聞こえたから……」
そう言って、布団の端をぎゅっと握る。
指先に、まだ力が戻っていない。
「夜ね……すごく静かで……。目、閉じると……いろんな音、なくなっちゃうの」
静けさが怖い。
その感覚は、痛いほど分かる。
「だから……ハヤトにぃにの足音、聞こえると……安心する」
俺は軽く頷いた。
「そっか。じゃあ、これからも毎朝聞かせてやる」
冗談めかして言うと、エレナは少しだけ笑った。
無理に元気づける必要はない。
必要なのは、「ここにいる」という事実だ。
エレナは端末に手を伸ばす。
途中で一瞬、動きが止まったが、首を振って操作を続けた。
「……勉強、する」
「無理しなくていい。今日は体調――」
「やる」
短く、はっきり。
その目は、弱っていても、逃げていなかった。
「勉強してるとね……ハヤトにぃにと、同じ時間を生きてる気がするの」
胸が、きしむ。
それは支えたいからじゃない。
置いていかれるのが、怖いんだ。
「一緒に進む。ちゃんと」
俺はそう言い切った。
曖昧な慰めはしない。
その言葉に、エレナは小さく息を吐いた。
廊下の向こうから、足音が近づく。
「ハヤトー! 朝から気合入りすぎだろ!」
テオの声。
直後、エマが慌てて制止する。
「ちょっと! 声大きい! ここ医療棟!」
いつものやり取りに、部屋の空気がわずかに緩む。
エレナも、ほんの少し口元を緩めた。
「テオくん……今日も元気だね……」
羨ましさというより、
「自分もそうありたい」という願い。
エマが分析ノートを差し出すと、エレナはそれをじっと見つめる。
俺が受け取るだけなのに、まるで自分のもののように大事そうだった。
「ねぇ……ハヤトにぃに」
不安を押し殺した声。
「今日も……行くんだよね」
「ああ。現場実習だ。昨日より忙しいらしい」
現実を、そのまま伝える。
エレナは布団を強く握る。
「……帰ってきてね。絶対」
「当たり前だ」
即答だった。
「俺は、やることをやって帰る。それだけだ」
エレナは少し驚いた顔をしてから、安心したように微笑んだ。
そして、俺の袖を軽く掴む。
「いってらっしゃい……ハヤトにぃに」
「ああ。行ってくる」
立ち上がり、背を向ける。
不安は、消えない。
それでも、足は止まらない。
――怖くてもいい。
――完璧じゃなくていい。
目の前の命から、逃げない。
それが、俺の選んだ道だ。
俺は今日も、不安を置いて、医療の現場へ向かう。




