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倒れないでくれ! ――限界と選択を描く医療ヒューマンドラマ――  作者: 東雲 明
プロローグ:はじまりの物語

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第2話 試練への準備と影の王

ルミナス市の空は、まるで巨大な鉄の蓋を被せられたように重く、低く垂れ込めた雲が街全体を圧迫していた。


 朝から降り続いた細かい雨が、石畳の道をぬかるませ、靴底にべっとりと泥を絡みつける。冷たい風が路地を吹き抜け、頰を鋭く切りつけるたび、俺の体は無意識に肩をすくめた。


 鼻を突くのは、石炭を焚く煙と馬の糞、それに市場の隅で腐りかけた野菜や魚の生臭さが混じり合った、息苦しい臭いだった。


 遠くで、荷馬車の車輪が石を軋ませる音が響き、すぐに酔っ払いたちの怒鳴り声が重なる。そしてその声は、誰かの短い悲鳴に変わって消えていった。


この街は、俺が村を離れる前に想像していた輝かしい首都とは、まるで別物だった。


 田舎の夕暮れのように静かで、星が瞬くような美しい場所だと思っていた。だが現実は違う。息をするたびに喉の奥に煤が絡みつき、目に入るのは灰色の建物と、疲れた顔をした人々の群れだけ。誰もが急ぎ足で歩き、互いの肩がぶつかっても謝らない。ただ前を向いて、黙々と進む。それが、この街の掟のように見えた。


俺は両腕に医学書を三冊抱え、よろよろと人波に逆らって歩いていた。


 解剖学の分厚い一冊が一番上にあり、その重みが肘の関節に食い込む。次に診断学、そして薬草学。どれも村の古い図書館から借りたものではなく、ようやく手に入れた新刊だった。


 表紙はまだ固く、ページをめくるたびに新しい紙の匂いが立ち上る。だがその匂いさえ、今は汗と泥にまみれて薄れていた。肩が軋み、首筋から背中にかけて鈍い痛みが広がる。


 腕が震え、指先が痺れる。それでも足を止められなかった。止まったら、この街に飲み込まれてしまいそうだったから。


 周りの人々は、俺たち田舎者の存在など気にも留めない。


 粗末な外套を着て、泥だらけの靴で歩く姿を、ちらりとも見ない。時折、馬車が横を通り過ぎるたび、泥水が跳ね上がってズボンの裾を汚した。だが文句を言う気力すらなかった。ただ、黙って歩き続ける。歩きながら、胸の奥に灯る小さな火を守るように。


 ようやくたどり着いたのは、細い路地にひっそりと佇む小さな洋服店だった。


 表札には「アトリエ・ルシール」とだけ書かれ、埃まみれの窓ガラス越しに、薄暗い店内が見える。ドアを開けると、チリンチリンと小さな鈴が鳴った。


 店内は外の喧騒から隔てられ、埃と古い布の匂いが静かに満ちていた。壁には様々な布地が掛けられ、ランプの柔らかな灯りに照らされて、淡い影を落としている。


 天井から吊るされたラベンダーの束が、かすかな甘い香りを漂わせていた。それは、この街で初めて嗅ぐ、優しい匂いだった。


 店長はカウンターの奥からゆっくりと顔を上げた。白髪交じりの髪を後ろに束ね、細い眼鏡をかけた初老の男性だった。皺の刻まれた顔に、穏やかな笑みが浮かぶ。


「ハヤト・キサラギ様ですね。お待ちしておりました。どうぞ、こちらへお掛けください」


 声は低く、落ち着いていた。だがその目が、一瞬だけ外の暗い路地へと向いたのを、俺は見逃さなかった。店長は立ち上がり、奥の棚から丁寧に布を取り出した。グレーのウール地、赤いベスト用の生地、ネクタイ、そして黒いスラックス。すべてが上質で、触れるだけでその違いが分かった。


 採寸は静かに進んだ。店長の手つきは確かで、メジャーを当てる指先は冷たかった。肩幅、胸囲、腕の長さ、腰回り。数字を呟きながら、時折俺の顔をちらりと見上げる。その視線に、かすかな同情のようなものが混じっている気がした。俺は黙って立っていた。鏡に映る自分の姿を、直視できなかったからだ。泥だらけの靴、汗で張り付いた髪、疲れ切った目。まだ、この街に馴染めていない自分が、そこにいた。


「キサラギ様は、ルミエールアカデミーへのご入学ですね」


 店長がぽつりと呟いた。針を口にくわえながら、布を裁つ手が止まらない。


「ええ、そうですね」


 俺は短く答えた。それ以上、言葉が続かなかった。


 店長は小さく頷き、作業を続けた。店内の静けさが、心地よかった。外の風の音、馬車の車輪の音、人々の足音。それらが壁越しに遠く聞こえるだけ。ランプの灯りが、布地の糸一本一本を照らし出す。時折、店長が咳払いをする音がする。それが、この小さな空間のすべてだった。


 やがて、制服が形を成し始めた。グレーのジャケットは肩にぴったりと合い、赤いベストが胸を締め付けるようにフィットする。ネクタイを締め、スラックスを穿つ。生地は固く、肌に張り付く感触があった。それでいて、どこか安心感を与える重みがあった。


 鏡の前に立たされたとき、俺は息を飲んだ。


 そこに映るのは、確かに俺だった。だが、どこか別人のように見えた。


 背筋が自然と伸び、肩幅が少し広くなった気がする。泥だらけの靴は変わらないが、上半身だけは、この街の人間らしくなっていた。胸の奥に、熱いものが込み上げてきた。喉が熱くなり、目頭が疼く。


 これで、俺は本当にここにいる。この街に、自分の道を歩き始めたんだ。


 村を離れる前の夜、エレナが言った言葉が蘇る。「ハヤトなら、きっとすごい医者になれるよ」。あの柔らかな笑顔と、温かい手。まだ幼かった俺の手を握りしめて、励ましてくれた。あの約束を果たすために、俺はここまで来た。どんなに苦しくても、どんなに汚れても。この制服が、その証になる。


 店長が後ろで小さく息を吐いた。


「似合いますよ、キサラギ様。これで、立派な学生さんです」


 その言葉に、俺は初めて笑った。ぎこちなく、だが確かに。


その瞬間だった。


 ドアが乱暴に開け放たれ、木枠が軋む大きな音が店内に響いた。埃が舞い上がり、ランプの灯りが激しく揺れる。冷たい外気が一気に流れ込み、ラベンダーの香りを吹き飛ばした。入ってきたのは、金髪の長身の男だった。高級な黒いマントが床を擦り、裾に泥が付いている。鋭い青い瞳が、店内をゆっくりと見回した。整った顔立ちだが、唇が薄く引き結ばれ、どこか冷酷な印象を与える。


 俺は無意識に壁際の棚の陰に身を寄せた。心臓が早鐘のように鳴り、指先が冷たくなる。息を潜め、男の動きを窺う。店長の顔が、一瞬で青ざめた。


「あ、ヴェルナー家の……お客様。制服の準備は、もうすぐ……」


声が震え、言葉が途切れる。店長は慌ててカウンターに戻り、手元の布を握りしめた。額に汗が浮かび、眼鏡がわずかにずれる。


 男はゆっくりと店内を歩き始めた。靴音が、床板を叩くたびに響く。マントの裾が、布地を擦る音がする。視線が、壁に掛けられた制服用の布へと向く。そして、俺のいる棚の近くを通り過ぎる。息を止めた。心臓の音が、自分でも聞こえそうなほどだった。


 男は立ち止まり、店長を見下ろした。低い声が、静かに、しかし確実に店内を満たす。


「ルミエールアカデミーか。あの偽善者どもの巣窟……いずれ、ヴェルナー家の手で、根こそぎ潰してやる」


その言葉が、俺の耳の奥で反響した。


潰す?


 命を救うための学問を、人の苦しみを癒すための場所を――ただ権力で、灰に変えるというのか。


 胸の奥に、静かな怒りが湧き上がった。最初は小さな火種だった。それが、じわじわと熱を帯び、胸全体を満たしていく。息が浅くなり、視界の端がわずかに赤く染む。拳が自然と握られ、爪が掌に食い込む痛みが、逆に冷静さを取り戻させた。


 男はもう店長に背を向け、踵を返して出ていこうとしていた。マントの裾が床を擦る音が、妙に大きく響く。ドアに手をかけたとき、俺は棚の陰からゆっくりと体を起こした。


 まだ声は出せなかった。喉が乾き、言葉が詰まる。だが、このまま黙って見過ごすつもりは、なかった。


 男がドアを開け、外の冷たい風が再び吹き込んでくる。その背中に、俺は一歩踏み出した。


「待ってください」


 ようやく出た声は、自分でも驚くほど低く、震えていた。


 男が振り返った。青い瞳が、俺を射抜く。店長が慌てて何か言おうとしたが、俺はそれを制するように手を上げた。


「ルミエールアカデミーを……なぜ、潰すんですか」


 言葉は短く、だが確かだった。男の眉がわずかに動いた。嘲るような笑みが、唇の端に浮かぶ。


「田舎者か。関係ないだろう」


 その冷たい一言に、俺の胸の火がさらに燃え上がった。だが感情に任せて叫ぶわけにはいかない。深呼吸をして、声を落ち着けた。


「関係あります。俺は明日から、あそこに通うんです。人の命を救うための勉強をしにきたんです。それを……ただ潰すなんて、許せません」


 男の目が細められた。店内の空気が、一瞬で張り詰める。ランプの灯りが、男の金髪を冷たく照らす。外の風が、ドアの隙間から吹き込み、埃を舞い上げる。


「許せない、か。面白いことを言うな」


 男が一歩、俺に近づいた。背丈の差がはっきり分かる。圧倒的な存在感が、俺を押し返す。だが足は動かなかった。医学書を抱えた腕の痛み、泥だらけの道を歩いてきた疲れ、この制服の重み。それらすべてが、俺をここに立たせていた。


「ヴェルナー家の名前を知っているか? この街で、俺たちの言うことを聞かない者はいない。お前のような田舎者が、何をできるというんだ」


その言葉は、刃のように鋭かった。だが俺は目を逸らさなかった。


「何もできないかもしれません。でも、黙って見過ごすこともできません。人の命を救おうとする場所を、力で潰すなんて……それが、正しいことだとは思えません」


 声が少しずつ大きくなった。店長が息を飲む音が聞こえた。男の表情は変わらない。だが、瞳の奥に、わずかな揺らぎが見えた気がした。


 沈黙が続いた。外の風が、ドアを軋ませる。遠くで、誰かの怒鳴り声が聞こえる。それが、この街の日常だ。


 男が、ふっと息を吐いた。


「名前は?」


「ハヤト・キサラギです」


「覚えておくよ、キサラギ。面白い奴だ」


 男はそれだけ言うと、背を向けた。今度は本当にドアを開け、外へ出ていった。マントの裾が翻り、冷たい風が最後に吹き込む。そして、ドアが閉まる音が、静かに響いた。


俺は、その場に立ち尽くしていた。膝がわずかに震え、息が荒い。だが胸の奥の火は、消えていなかった。むしろ、ますます熱く燃えていた。


店長が、ゆっくりと近づいてきた。


「キサラギ様……大丈夫ですか?」


俺は頷いた。声が出るまで、少し時間がかかった。


「はい。大丈夫です」


鏡に映る自分を見た。制服に包まれた姿は、まだぎこちなかった。だが目だけは、確かに変わっていた。この街に来たときよりも、強く、熱を帯びて。


明日から、本当の戦いが始まる。


ヴェルナー家という巨大な壁を前に、俺に何ができるのか、まだ分からない。


だが、この制服の重み、この胸の火を、絶対に消さない。


どんな代償を払ってでも、守ってみせる。


ルミエールアカデミーを。そして、そこに集う人々の未来を。

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