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倒れないでくれ! ――限界と選択を描く医療ヒューマンドラマ――  作者: 東雲 明
一年生編:慌ただしい日々

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第19話 守りたい人がいるから、俺は走る

朝の獅子寮の食堂は、いつもと同じように賑やかで、温かくて、少しだけ騒がしかった。


テオはパンをトースターから取り出すと、そこに“塗る”というレベルを完全に超えた量のジャムを盛りつけ、悦に入った声をあげる。


「今日のジャム……優勝だわ!」


その気の抜けた声に、エマは深いため息をつきながら肘で小突いた。


「午後の実習で倒れても知らないわよ。血糖値スパイクで看護師さんに迷惑でしかないからね?」


「いやいや、俺の胃袋は無限だから問題なし!」


「あんたの脳みその容量も無限だといいんだけどね……」


そんな、くだらなくて平和な朝の風景。

でも、俺の胸の奥には、静かな痛みがずっと残っていた。


昨日の夜──

病院のベッドの上で、小さな手が俺の手をぎゅっと掴んだ感触。


「ハヤトにぃに、歩けるようになったら……一緒にお散歩したいな」


か細い声で微笑む エレナ・インゼル。

血の繋がりなんてない。

家族でもない。

ただ、あの子は俺にとって特別で、守りたいと思ったたった一人だった。


笑わせてやりたい。

外の空気を吸わせてやりたい。

あの子を泣かせる世界を、できるなら一秒でも早く終わらせたい。


そんな気持ちを胸に押し込んで、パンに手を伸ばした瞬間──


バンッ!


食堂の扉が勢いよく開いた。


全員が驚いて振り返る。

白衣の裾を翻し、険しい表情で立っているのは学院付属病院の救急統括医、ドクター・アンダーソンだった。


学生たちのざわめきが、すぐに吸い込まれるように収まる。

アンダーソン教授は迷わず俺たちのテーブルへ向かった。


靴音が近づくにつれ、胸が嫌な予感で満たされていく。


アンダーソン教授は、俺の前で立ち止まると、低く落ち着いた声で言った。


「ハヤト・キサラギ。時間をもらう」


テオもエマも固まったまま動けない。

俺だけがゆっくりと立ち上がった。


アンダーソン教授は学生全体に聞こえるよう告げた。


「昨夜から重症患者の搬送が急増した。外傷、呼吸器疾患、心臓のトラブル……種類はバラバラだが、例年の三倍だ。救急はすでにパンク寸前で、臨時フロアも開放している」


食堂の空気が一瞬で重くなる。


パンデミックじゃない。

外傷や急変が“偶然”重なっただけでも、医療は簡単に崩壊寸前まで追い詰められる。

俺たちは、それを嫌というほど学んできた。


アンダーソン教授は続ける。


「各科が総出で動いているが、とても間に合っていない。上級生は“教育”の枠を超えて、医療者の一員として現場に入ってもらう」


学生たちの表情に緊張が走る。


だがアンダーソンの視線は、ただ俺一人に向けられていた。


「──キサラギ。君の研究が必要だ」


喉がひりつく。

でも、聞かなければいけないと思った。


「……どういうことですか」


アンダーソン教授は短く息を吸い、迷いなく告げた。


「君が進めていた症状進行のデータ解析モデル。あれは、重症化のパターンを読むための鍵になる。現状、君ほど精度の高い分析をできる学生はいない」


心臓が跳ねた。

あの研究は、エレナの病状を理解するために始めたものだ。

彼女が痛みで顔を歪めるたび、俺は悔しくてたまらなかった。


アンダーソンは、さらに言葉を続けた。


「……エレナ・インゼルの状態も、把握している」


息が止まった。


「昨夜は安定していた。だが、いつ急変してもおかしくない。彼女のデータも例外じゃない。だからこそ、君の解析が必要だ」


胸が締めつけられた。


「君が研究を止めれば、救えるはずのケースが救えなくなる。……エレナも含めてな」


世界がぐらりと揺れた気がした。


エレナの笑顔。

弱々しい声。

手の温度。

あの子の「生きたい」という小さな願い。


守りたい。

絶対に守りたい。


でも、俺はまだ学生だ。

未熟で、無力で、ひどく小さい。


アンダーソンは俺の迷いを断ち切るように言った。


「君は学年首席だ。知識も、判断力も、精神力も備えている。君ほど“託せる学生”はいない」


逃げる理由なんて、どこにもなかった。


喉が震えて、でも声だけは絞り出した。


「……はい。やります。

 俺が……やります」


アンダーソンは静かに頷き、短く「頼んだ」とだけ言って食堂を出て行った。


白衣の背中が遠ざかるたび、胸の奥で何かが熱くなった。


テオが震える声で言う。


「ハヤト……ほんとに、行くんだな……?」


エマは唇を噛みしめている。


「エレナちゃん……大丈夫なの……?」


俺は涙を袖で拭い、二人に向き直った。


「大丈夫だよ。絶対に助ける。

 ……エレナも、現場の人たちも」


でも胸の奥では、叫んでいた。


(エレナ……!ごめん……!)

(俺がもっと強かったら、こんな思いさせずに済んだのに……!)

(だけど今度こそ──必ず間に合わせる。

 あの子を外に連れ出す。太陽の下で笑わせる)


拳を握りしめる。

爪が掌に食い込んでも痛みなんか感じなかった。


今日から俺は、研究室に籠もる。

誰より早くデータを読み解き、重症化の流れを掴むために。


これは逃避じゃない。

覚悟だ。


俺はハヤト・キサラギ。

学年首席。

そして──エレナ・インゼルを救いたいと思った、一人の医療者だ。


そのすべてを賭けて、今、立つ。

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