第18話 唇に宿る覚醒
廊下を歩くたび、胸の奥にずしりと重い石が落ちる。
獅子寮への減点処分は、紙切れ一枚に過ぎないはずなのに、体のどこかに刺さったまま抜けない。寮監の冷たい声、仲間たちの視線の痛み、どれも遠くで鈍く響き、俺の心を少しずつ削っていった。
全部、俺のせいだ。
もっと早く気づけばよかった。もっとちゃんと気を配っていれば。
エレナのあの弱々しい笑顔が頭から離れない。俺の無神経さが、彼女を余計に疲れさせたのだと胸が締めつけられる。
扉を開けると、夕陽が教室の床に赤い線を引いていた。
窓際に立つエレナは、小さく肩を丸め、こちらを見上げる。髪は光に透け、細い肩が儚く揺れている。顔色は悪く、唇の色も少し白っぽい。
あのとき、もっと早く気づけなかった自分を責めたくなる。
「……来てくれたんだ」
掠れた声が胸に刺さる。
「ごめん、もっと早く――」
言葉が出そうになったが、喉が詰まって飲み込んでしまった。
一歩近づくと、膝がわずかに震える。
体温が伝わる距離で、俺は初めてはっきりと気づいた――こんなにも、彼女のことを考えていたのかと。
指先に力を込めると、冷たく、少し湿った感触が伝わる。触れるだけで、心が押し潰されそうになる。
「ハヤト、無理してない?」
問いかける声に、思わず息を飲む。
胸の奥で、これまで感じたことのない責任感が重くのしかかる。
俺が守れなかったら、誰が守るんだ――。
「違う。無理なんかじゃない。俺が――」
言葉が途切れる。
自分の弱さも、臆病さも、全部が恥ずかしくなる。
それでも、彼女の肩に手を添え、そっと支えた。
それだけで、ほんの少しでも安心してくれたなら、それでいい。
「本当に大丈夫?今日、授業も休んでないし……」
その言葉に、目頭が熱くなる。
「大丈夫って……本当に言えるのか?無理してるんじゃないのか?」
俺の声が少し強くなった。感情を押し殺せなかった。
「無理してないよ……ただ、少し疲れただけ」
弱々しい笑顔。俺の胸がきゅっと痛む。
心配する余り、言葉が溢れそうになる。
「疲れただけ、って……それでも俺は、気づけなかった」
エレナは首をかしげ、困ったように目を伏せる。
「ハヤト……そんなに自分を責めないで」
「責めない?責めないって……でも、俺が気づいてやれなかったせいで、君が……」
声が震える。手のひらが汗ばんで、力が入らない。
胸の奥の穴を、どうしても埋めたくなる。抱きしめたい、守りたい――
「……もういい。ハヤト、泣かないで」
目の前の彼女の声が、かすかに震えている。
俺の目からも、知らず知らず涙が零れた。
「泣いてもいいんだよ。私も……一人で耐えるの、もう嫌だ」
その言葉が、心の奥を震わせる。
こんなに弱い彼女を、一人で苦しませていたなんて。
「……ごめん、エレナ。本当に、ごめん」
沈黙の間、俺は彼女をぎゅっと抱き寄せた。
制服越しに伝わる体温は冷たく、しかし確かに現実だった。
小さく震える彼女の体が、胸の奥に刺さる。
「もう二度と、独りにさせない」
心の中で何度も誓った。
「……ありがとう、ハヤト」
額を俺の胸に押し付け、息を整えるエレナ。
その瞬間、すべてが胸に沁みる。
小さな温もりが、俺の不安も、後悔も、全部洗い流してくれる気がした。
「ねぇ……今日、放課後まで残っててくれる?」
甘えた声に、胸がきゅっと締め付けられる。
「……ああ。もちろんだよ。ずっと、ここにいる」
腕をしっかり回し、彼女の背中を支える。
沈む夕陽が二人を影に包み、教室に静けさが広がる。
外のざわめきは遠く、今だけはこの場所が世界のすべてのように感じられた。
「ハヤト……なんで、そんなに心配するの?」
不思議そうに、少し笑うエレナ。
「……君が大事だからだ」
思わず口に出た言葉に、自分でも驚く。
でも、嘘じゃない。胸の奥の熱が、正直に語らせた。
「……私も、ハヤトがいてくれてよかった」
細い指が、シャツ越しにぎゅっと俺の背中を掴む。
その感触だけで、胸の奥に溜まっていた空洞がぎゅっと埋まる。
――守りたい。この人を、絶対に。
日が完全に落ちて、教室の影が深くなる。
それでも、二人の間に流れる空気は柔らかく、温かい。
小さな呼吸、細かい心拍の震え、握り合う手の温度。
全てが現実で、何よりも大切なものだと、はっきりと理解した。
「ハヤト……明日も、ここにいてくれる?」
震える声。少しだけ不安げな目。
「……ああ。絶対に離れない」
握り返す手に力を込め、心の底で誓った。
どんなことがあっても、どんな代償があっても、彼女を守る――それだけでいい。
その日の教室は、夕陽に染まりながらも、二人の小さな世界のまま静かに包まれた。
ハヤトの胸の中に、これまで味わったことのない決意と安心が、ゆっくりと広がっていく。




