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倒れないでくれ! ――限界と選択を描く医療ヒューマンドラマ――  作者: 東雲 明
一年生編:慌ただしい日々

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第18話 その小さな震えを、俺は見逃さない

廊下を歩きながら、俺は自分の足音だけを数えていた。

一定のリズムを刻んでいるはずなのに、心臓の鼓動だけが微妙に合わない。

早すぎるわけでも、遅すぎるわけでもない。ただ、落ち着かない。


原因は分かっている。

――エレナだ。


ほんの少し前まで、いつも俺の横を軽い足取りで歩いていたはずの少女。

最近、その歩幅が目に見えて小さくなっていたことに、俺は気づいていながら、深く考えなかった。


「疲れてるだけだろう」

「子どもは回復も早い」


そんな、医療を学ぶ人間としてあるまじき思い込みを、どこかでしていた。


扉の前で立ち止まり、息を整える。

深呼吸を一つしてから、静かにドアを開けた。


夕方の教室は、昼間とは別の顔をしていた。

低い角度から差し込む夕陽が、机や椅子の影を長く伸ばし、床を橙色に染めている。

音はなく、時間だけがゆっくり沈んでいくような空間だった。


窓際に、エレナがいた。


小さな背中。

肩をすぼめるように立つ姿は、いつもよりさらに幼く見える。

光に透ける髪の毛が揺れ、細い首筋がやけに頼りなく感じられた。


「……あ」


俺に気づいたエレナが、ぱっと振り向く。


「ハヤトにぃに!」


その声は、明るい。

いつもと同じ、無邪気な調子。

けれど、ほんの一瞬だけ、声の立ち上がりが遅れたのを、俺は見逃さなかった。


「来てくれてありがと!」


笑顔を向けられて、胸がちくりと痛む。

――その笑顔を、俺はどれだけ信じてきた?


「待たせたな」


「ううん!ぜんぜん!」


そう言いながら、エレナは小さく体重を移動させる。

その瞬間、ほんのわずかに膝が震えた。


……やっぱり、か。


「エレナ」


「なぁに、ハヤトにぃに?」


俺は一歩近づき、しゃがみ込んで目線を合わせた。

医療現場で、患者と話すときと同じ距離。

威圧せず、逃げ場を奪わない位置。


「今日は、どうだ?」


「どう、って?」


「体だ。しんどくないか?」


エレナは一瞬きょとんとした顔をして、それから慌てて首を横に振った。


「だいじょーぶ!ちょっとね、ちょっとだけ疲れただけ!」


その「ちょっと」を、俺は何度も聞いてきた。

そして、その裏に無理が隠れていることも、嫌というほど学んできた。


「疲れたなら、それは立派なサインだ」


「え?」


「体が『休みたい』って言ってる」


エレナは目を丸くして、しばらく俺の顔を見つめていた。

やがて、少しだけ困ったように笑う。


「でも……私が休んだら、みんなに迷惑かけちゃう」


その言葉に、胸の奥が重くなる。

12歳の子どもが、そんなことを真っ先に考える必要はない。


「迷惑なんかじゃない」


きっぱりと言った。

迷いはなかった。


「エレナが倒れたら、それこそ周りは困る。

それに――」


一拍置いて、言葉を選ぶ。


「俺が、困る」


エレナは一瞬驚いた顔をして、それから、ふっと力を抜いた。


「……ハヤトにぃにって、へん」


「どこがだ」


「だって、そんな真面目な顔するから」


そう言って、くすっと笑う。

でも、その笑顔はさっきより少しだけ、素直だった。


俺はそっと、エレナの肩に手を置いた。

支えるための位置。

引き寄せるためじゃない。


「無理してるなら、俺に言え」


「……うん」


「言えないなら、俺が気づく」


その言葉に、エレナの指先が、俺の制服の袖をきゅっと掴んだ。


「ねぇ、ハヤトにぃに」


「ん?」


「気づいてくれて……ありがと」


その一言で、胸の奥が締めつけられる。

――俺は、もっと早く気づくべきだった。


「……ごめんな」


思わず、そう漏れた。


「え?」


「今まで、しんどかっただろ」


エレナは少し考えるように首を傾げ、それから小さく頷いた。


「……うん。でもね」


顔を上げて、真っ直ぐ俺を見る。


「ハヤトにぃにがいたから、がんばれた」


その言葉は、重かった。

支えになれていたことへの安堵と、同時に背負う責任。


「もう、がんばりすぎなくていい」


俺は静かに言った。


「これからは、俺がちゃんと見る。

その小さな変化も、震えも、全部だ」


エレナはしばらく黙っていたが、やがて大きく頷いた。


「うん!約束だね!」


「ああ、約束だ」


夕陽が完全に傾き、教室の中が少し暗くなる。

それでも、不思議と怖さはなかった。


「ねぇ、ハヤトにぃに」


「どうした」


「放課後、一緒に帰ろ?」


「ああ。もちろん」


エレナは嬉しそうに笑い、俺の隣に並ぶ。

その歩幅は、さっきより少しだけ安定していた。


俺はその小さな背中を見守りながら、心の中で静かに誓う。


――もう見逃さない。

――この小さな命のサインを。


医療を学ぶ者として。

そして、兄として。


夕暮れの教室は、何も言わず、ただ静かに二人を包み込んでいた。


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