第17話 その涙のわけを知りたくて
病室の扉をそっと押し開けると、午後の光が白い壁に反射していた。
静かな病室の空気に、消毒液の匂いが薄く漂っている。モニターの規則的な電子音だけが、エレナの存在を淡々と知らせていた。
ベッドの上の少女は、少しだけ寝返りを打ち、細い指を胸の上に置いていた。
昨日より顔色はいい。けれど、それでも入院中の子ども特有の弱々しさがある。
その光景を見るたび、胸の奥が痛んだ。
「エレナ。来たよ」
声をかけると、エレナのまつげがかすかに震え、ゆっくりと目が開いた。
眠気を引きずった視線が俺をとらえると、ほんの少しだけ、花が開くように微笑む。
「……ハヤトにぃに」
名前を呼ばれるたび、胸が熱くなる。
弟や妹に呼ばれるような“にぃに”という響きなのに、その声の奥には淡い甘さが混ざっていて、俺はどうにも平静でいられなくなる。
エレナは手を伸ばし、握ってほしいと無言で訴えるように指を動かした。
俺はそれをそっと包み込む。冷たい。けれど、その冷たさが、逆に「生きて触れている」ことを確かめられるようで、どこか安心感さえあった。
「今日、少し楽になったって先生が言ってた。発作も落ち着いたらしいぞ」
「うん……でもちょっとだけ、怖かった」
エレナが吐き出す言葉はどれも小さくて、胸の奥に直接落ちてきた。
この歳で、こんな恐怖に耐えている。
それを思うと、どうしようもない悔しさが込み上げる。
「ハヤトにぃに、来てくれるとね……胸のドキドキがすーって落ち着くの」
言いながら、エレナは握った手にほんの少しだけ力を込めた。
「それは……俺の顔が地味だからじゃないか?」
冗談を言うと、エレナはぷくっと頬をふくらませる。
「ちがうもん。ハヤトにぃにがいると……なんか、あったかくなるの。
ほっとするというか……安心するというか……」
声がだんだん小さくなる。
だが、言葉の先にある気持ちがはっきり伝わってきた。
俺はその“温度”に動揺して、喉がひりつく。
「……俺もだよ。」
「え?」
「お前の顔見ると、安心する。
勉強で疲れてても……ここに来ると、不思議と元気になるんだ」
エレナは一瞬ぽかんとしたあと、頬を赤くして目をそらした。
その仕草が妙にいじらしくて、胸の奥で何かがふわりと揺れた。
「ねぇ……ハヤトにぃに。今日、座っていい?」
エレナがベッドの隣をぽんぽんと叩く。
俺は椅子ではなく、ベッドのへりにそっと腰を下ろした。
距離が近い。
こんなに近いと、彼女の呼吸の音も聞こえる。
苦しいけれど愛おしい、そんな複雑な感情が胸に溢れ返る。
「……もうすぐ検査だって聞いたけど、怖くないか?」
「本当は、ちょっとだけ。
でも……ハヤトにぃに、終わったら抱きしめてくれる?」
思わず言葉を失う。
「……エレナ。それは、その……医療者としては——」
「患者としてじゃないよ」
エレナが小さく笑う。
「ハヤトにぃにとして。だめ?」
柔らかな声。
甘えるみたいな目。
拒めるはずが、なかった。
「……わかったよ。
頑張ったら、少しだけ。抱きしめてやる」
その瞬間、エレナの瞳がぱっと輝いた。
嬉しさを隠せずに浮かぶ笑顔が、まぶしすぎて目を逸らしそうになる。
こんなふうに喜ばれるなんて、ずるい。
「でも、お前が頑張ったら、だからな」
「うん。頑張る!」
小さな拳を握って見せるエレナに、思わず笑みが漏れた。
その後しばらく、たわいない話をした。
学校の話、病院のご飯が美味しい日と美味しくない日の話、
昔二人で遊んだ公園の話。
エレナはよく笑うようになった。
苦しそうな日もあったのに、今日は表情に少し余裕がある。
それがただただ嬉しかった。
「ハヤトにぃに」
名前を呼ばれるたび、俺の中の何かが柔らかくほどけていく。
「わたしね……ハヤトにぃにのこと、特別だよ」
その言葉は、ふわりと胸の奥に落ちて、一瞬で熱に変わった。
「特別、って……?」
返すと、エレナは少しだけ考えて、小さく息を吸った。
「……えっと……普通に好き、じゃなくて……
もっと、ぎゅっとなる好き……?」
幼い言葉なのに、核心を突いている。
俺は返事に詰まり、視線を落とした。
医療者として、そして十九歳の大人として、
彼女の思いに同じ温度で応えてはいけない。
だけど、エレナの手を離したくなかった。
矛盾した思いが胸の奥でぶつかり合う。
「エレナ。
俺も……お前のこと、大事だよ。
誰よりも大事に思ってる。
でも、それは……守りたいって気持ちで……」
「うん、わかってるよ」
エレナはふわりと微笑み、俺の手に額を寄せた。
「でもね……それだけで充分。
わたし、ハヤトにぃにに守られるの、好きだから」
胸が震えた。
「……じゃあ、絶対に治してやる。
お前が元気になって、また学校に戻れて、
どんな未来を選ぶにしても……笑っていられるように」
「うん……!」
エレナは嬉しそうに目を細めた。
その瞬間、呼吸のリズムがわずかに整ったのがわかる。
心臓の鼓動も落ち着いている。
まるで、触れ合う手の温度が、エレナの不安をひとつずつ溶かしているようだった。
「ねぇ……ハヤトにぃに」
エレナが小さく囁く。
「……退院したら、一緒に桜、見に行こうね」
「もちろんだ。満開のときに行こう。
去年行けなかったぶん、今年はたくさん歩くぞ」
「ふふ、じゃあ頑張って治さなきゃ」
その無邪気な笑顔に、胸が温かく満たされた。
医療者としての責任ではなく、一人の人間として——
この子の未来を守りたいと、心から思った。
「……エレナ」
「なに?」
俺はその小さな手を、もう一度強く握った。
「お前が笑ってくれるなら……それだけで十分だよ」
エレナは照れたように微笑み、
そして、俺の胸へそっと頭を預けた。
その温度が、たまらなく愛しく感じられた——
兄と妹以上、恋人未満。
そのどちらでもない、けれど確かに“特別”な距離。
病室の静寂の中で、俺たちはゆっくりと呼吸を揃えた。
いつか、彼女がもっと大人になって、
強くなって、この病を乗り越えたら——
そのとき初めて、俺はちゃんと向き合う。
医療者でも兄でもない、一人の青年として。
静かにそう決意しながら、エレナの眠りにつく音を聞き続けた。




